前田正宗
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前田正宗(まえだまさむね)
- 享保名物帳所載
前田正宗 無銘九寸五分 代七千貫 紀伊殿
表梵字護摩箸、利長卿所持、天徳院様金澤へ御輿入の刻、大久保相模守殿御供、利長卿より相模守殿へ遣さる。正保二年右の折紙になり、もと光徳極めなり、井伊掃部頭殿御求め遺物として家綱公で上る、鶴姫君様御疱瘡御快然の刻み常徳院様一位様へ進せらる- 天徳院は秀忠三女。
- 平造り、真の棟。差表に梵字2個。裏に護摩箸。中心うぶ、目釘孔2個。
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由来
- 利家長男、前田利長が所持したことからこの名がつく。
来歴
前田利長
- 加賀初代藩主前田利長所持。
大久保忠隣
- 慶長6年(1601年)9月晦日、秀忠三女天徳院珠姫がわずかに3歳で利長弟の前田利常に輿入れした際に、大久保相模守忠隣と青山忠成らが供奉して金沢入りしたという(越前金津で前田家に引き渡した)。この時、利長より大久保忠隣に謝礼としてこの「前田正宗」が贈られる。
- 大久保忠隣はこの「前田正宗」を三男で旗本寄合の右京亮教隆へ与え、その子右京亮教勝に伝わる。
教勝が家督を継いだのが寛永20年(1643年)、翌正保元年(1644年)に父と同じ従五位下右京亮に叙されている。この頃に本阿弥に鑑定に出し、その後手放したと見える。
井伊直孝
- 正保2年(1645年)七千貫の折紙が付き、のち三百八十五枚で井伊掃部頭直孝が買い求め井伊家に伝わる。慶安3年(1650年)に本阿弥に命じて金具を造らせている。
井伊直孝は近江彦根藩2代藩主。秀忠、家光、家綱と3代に渡って仕え、万治2年(1659年)6月に70歳で死去。
将軍家
- 万治2年(1659年)7月26日、井伊直澄(井伊直孝五男、彦根藩3代藩主)が遺物として献上している。
廿六日井伊玄蕃頭直澄喪制にこもりしが。 起復の仰蒙り。襲封を謝し奉り。備前包平の太刀。 綿二百把。銀三百枚獻じ。また父掃部頭直孝が遺物前田正宗の脇指。并に癡絶墨跡一 幅。大隅肩衝の茶入を獻ず。
紀州徳川家綱教
- 5代将軍綱吉の長女鶴姫は紀州藩3代藩主の綱教に輿入れしていたが、この天然痘が快癒したため、元禄14年(1701年)3月18日に綱吉が生母や夫人を伴い紀州徳川家に臨んでいる。その際に、粟田口国吉、来国行の刀とともにこの「前田藤四郎」を綱教に贈った。
十八日紀伊中納言綱教卿襲封ありし後。はじめてかの邸にならせ給ふ。(略)けふの賜物は。綱教卿に粟田口國吉の御刀。來國行の御刀。前田正宗の御さしぞへ。
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