三本寺吉光
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三本寺吉光(さんぼんじよしみつ)
黒漆塗合口腰刀
中身 吉光
刃長一尺九寸
- 刀身1尺9分(約36cm)ながら、外装の総長は58cmと長めな造りとなっている。
由来
山本寺上杉家 、山本寺氏所持にちなむ。
山本寺とは、上杉景勝の本姓である長尾氏の景定が越後山本寺(三本寺)の領主となり姓を山本寺と改めたことにちなむ。始祖は諸説あり。上杉房朝の弟上杉朝定ともいう。三本寺(さんぽんじ)、三宝寺(さんぽうじ)とも。
- 一方「三本木」は、京都の地名によるものと思われる。
- 豊臣秀吉の正室ねねは、秀吉薨去後に落飾して湖月尼と号し、京都三本木に住した(「三本木屋敷」)ともいう。これに関係する可能性があるが、詳細は不明。
太閤薨死之後ハ剃髪して湖月尼と號し、京都之三本木に在住し、東山ニ一寺を建て、高臺寺と號し、一文中之位牌を居へ置、亦一廟を造り、名湖月堂となり。
三本木は現京都御所の南側。京都市営地下鉄烏丸線丸太町駅の東側。ただし、ねねが住んだのは三本木ではないともされる。
来歴
- もとは山本寺家の蔵刀
- その後、いかなる経緯で秀吉の手に渡ったのかは不明。
- 文禄3年(1594年)10月28日、秀吉が聚楽第近くにあった上杉邸に臨んだ際、上杉景勝が拝領した。
山本寺氏→秀吉→上杉景勝
- 今村長賀の評が「出羽米沢上杉家刀剣目録」に載る
小銘不十分、出来もあしく、疵もあり
国指定文化財等データベース:黒漆合口腰刀拵ではないかと思われるが不明。昭和36年(1961年)2月17日重要文化財指定。
山本寺定長(さんぽんじさだなが)
- 戦国時代の武将。越後国の人物で、山本寺上杉家当主。
- 山本寺上杉家は上杉氏庶流で、不動山城主。
- 弘治元年(1555年)には、上杉謙信の家臣として川中島の戦いに従軍し、軍功を挙げている。
- のち上杉景虎(北条三郎)が謙信の養子となると、その傅役に任命された。その縁で、天正6年(1578年)の御館の乱では上杉景虎方に付いて敗北。居城を捨てて失踪した。家督は弟(息子ともいわれる)の景長(孝長)が継いだ。
山本寺景長(さんぽんじかげなが)
- 定長の子、または弟とされる。
- 定長が御館の乱で景虎方について敗れて逐電すると、その後を継いだ。
- 天正10年(1582年)4月、上杉家の内乱につけこんだ織田氏は、柴田勝家率いる4万とも言われる北陸平定軍で越後侵攻を開始する。
- これに対して山本寺景長は、中条景泰、竹俣慶綱・吉江宗信らと共に越中国魚津城に篭城する。御館の乱で兵力を消耗し、信濃方面でも織田軍と対峙していた上杉家は魚津城へ援軍を送ることが出来なかった。
- さらに信濃海津城の森長可や上野厩橋城の滝川一益が、景勝の本拠春日山城を総攻撃する態勢に入ったため、景勝は5月27日に退陣を決断する。その際、開城しての降伏やむなしと城内に伝えるが、景長らは降伏をよしとせず全員自害した。
- 落城が近い事を悟った守将13人は、耳に穴を開け、自分の名前を書いた木札を全員で結び自刃したという。
- 開城は本能寺の変の翌日のことであった。
- 弟(子とも)の藤三郎勝長は御館の乱で景虎方に与し、敗北後は閑居していたが、やがて上杉家に帰参した。のち、300石(後に500石)で米沢藩高家となっている。
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