三善長道(刀工)
三善長道(みよしながみち)
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生涯
- 寛永10年(1633年)、奥州会津藩工の三善政長の子として会津に生まれる。※あるいは初代長国晩年の子ともいう。
- 俗名は三善藤四郎。初代藤四郎。
- 寛永10年(1633年)会津生まれ。
- 16歳で父に死別したため、父の門人、叔父である三善長俊に師事する。禄ははじめ三人扶持と米十二石。のち二人扶持と米三石の加増があった。
- はじめは「道長」と茎に銘を切り「三好道長」と称していたが、26歳の時万治元年(1658年)8月13日に上京して陸奥大掾を受領した際、「三善長道」に改める。
これは手続きの際口宣案に名前が誤記されてしまっていたことから以降改名したとの説もあるが、御堂関白藤原道長と同字であったため憚りありという朝廷側の判断によったものである。
- 延宝年中に江戸に駐槌し、自作刀を山野勘十郎久英に試させ、二つ胴、三ツ胴の好成績を示し、最上大業物の位列を得た。
- 藩主より厚遇され、長道が佩刀を鍛えるごとに刀五両、脇差三両を賜ったという。
- その腕により、「会津正宗」、「会津虎徹」と呼ばれた。
- 貞享2年(1685年)に53歳で没。
- のち最上大業物に挙げられたことから、著名工となった。
著名作
- 刀
- 銘「陸奥大掾三善長道/金象嵌 延宝三年八月十一日 参ツ胴裁断 山野勘十郎久英(花押)」刃長二尺三寸六分。会津藩主代々の枕刀。号 面影。
- 刀
- 金象嵌銘「延宝三年八月十八日/金象嵌銘 山野勘十郎久英 一ノ胴片手ニ而切落」。会津藩家老萱野権兵衛の所用
- 刀
- 銘「陸奥大掾三善長道/延宝丁巳八月」長2尺2寸8分。元治元年(1864年)6月5日に起きた池田屋の変ののちに、新撰組局長の近藤勇が会津藩主松平容保から拝領したもの。明治元年(1868年)4月に越谷の政府軍本営に出頭したときにも身につけており、谷干城により没収される。のち土佐藩主家に献上され、戦後は靖国神社遊就館で保存された。
※有名な「下拙刀は虎徹故に哉無事に御座候」の手紙に書かれている。此度戦功且探索方万事周旋指揮宜敷により、三善長道の御刀、当節の御褒美として拝領仕候。組一統へは金五百両拝領仕候。此段御吹聴申上候。
(近藤義父周作宛書状)
系譜
- なお、長道の名は明治に至るまで襲名され続けている。
- 初代を除けば8代が名手とされ、「棟梁長道」と呼ばれる。※代数に一部混乱があるが、今野繁雄氏、佐藤清氏によれば8代が棟梁長道となっている。
- 津田越前守助広門人との説もある。作柄としては江戸の長曽祢虎徹に似ており、反り浅く地鉄小板目に柾まじり、刃文は砂流しまじりの互の目乱れなどを焼く。
予州松山三善長国──三善政長(三善市九衛門後藤四郎)──初代三善長道
- 諸説あり
二代長道
- 三善庄右衛門。
- 「奥州会津住長道」
- 初代長道の子。
- 父の代作を多く打ったとされる。二代以下は代々受領せず。
- 貞享5年(1688年)没。
三代長道
- 「奥州会津住三善長道」「陸奥会津住三善長道」
- 傳四郎、のち藤四郎。
- 三代も上手で知られた。
- 元禄10年(1697年)没。
- この代で長道は絶える。政長の子・嘉平治がのち藤四郎四代目を称して「長道」と打った。以下数代あり。
八代長道
- はじめ権八、のち藤四郎。
- 初銘・道長・長道。
- 「奥州会津刀鍛冶棟梁三善長道」
- 勝れて良い作品を残した。
- 60歳を過ぎた文久頃に藩主より会津刀鍛冶棟梁を拝命し、「鍛冶棟梁」と切った。そのため、「棟梁長道」と称される。※「鍛冶棟梁」銘があるのは8代、9代のみとされる
※続いて、拝命したのは「角元興(初代)」。はじめ水心子正秀に師事して秀国と銘し、もち大和守元平に師事して元興と改めた。
- 今野繁雄氏によれば、
- 享和元年(1801年)6代没
- 文政2年(1819年)9代生まれ
- 文政12年(1829年)7代存命、8代35歳、9代11歳
- 天保3年(1832年)7代没(8代長道相続)という。
※つまり文久元年(1861年)には8代は67歳ということになる。
九代長道
- 通称・芳太郎、のち藤四郎。
- 棟梁長道の長男で、鍛冶棟梁を拝命さたとされる。
- 維新後に会津藩が斗南藩と改めた時、子の11代とともに彼の地に渡り、「三戸打」を残している。
- 会津戦争が慶応4年(1868年)4月20日~明治元年(1868年)9月22日。9月22日鶴ヶ岡城落城、会津藩領は没収。容保は妙国寺(会津若松、宝光山)へ移され、藩主容保は鳥取藩預かりとなった。10月19日会津を発し、江戸へ護送され、池田邸に永預け。
- 明治2年(1869年)6月3日、容保の実子、慶三郎(容大)が生まれる。11月4日、容保の嫡・男慶三郎(容大)は家名存続が許され、3万石で斗南藩が立藩した。12月7日、容保は和歌山藩へ預け替えとなる。
- 明治3年(1870年)5月15日容大が斗南藩の知藩事となる。明治4年(1871年)、容保も斗南藩に預け替えとなり、7月から8月の約1カ月間、田名部(青森県むつ市東部)にて居住するが、その後東京へ移住する。明治5年(1872年)1月、蟄居を許される。
- 明治21年(1888年)1月7日没、享年70。
三善一派
- 二代以後、代々藩工として活躍し、明治の九代長道まで続いた。
祖父・長国
- 文禄、寛永ごろ。
- 「奥州会津住長国」
- 天正5年(1577年)広島の生まれ。長谷部国信の末流九代の孫・常慶の子という。
- 播磨守輝広の甥にあたることから刀工となった。
- 三好藤四郎と号す。
- 初め宗左衛門安廣と言う。のち伊予松山へ移住し、伊予松山藩主・加藤嘉明に仕え、名を「長國」とした。
- 文禄の役では、主君に従って朝鮮へ渡り彼の地で打ったと言う。
- 寛永4年(1627年)蒲生氏の転封に対する形で会津若松城43万5500石に加増されたのに従って会津入り。甲賀町に横十五間の屋敷を賜ったという。
- 銘を「豫州松山住長國」とした。
- 寛永8年(1631年)6月18日、55歳で没。城下、法華寺に葬り、これが一門の菩提寺となった。
父・政長(初代)
- 長国の子。三善長道の父。
- 本名・三善利右衛門のち藤四郎、予州松山三善長国の子。
- 初銘「正長」。寛永10年(1633年)「藤四郎政長」と改める。
- 壮年の頃、京に上り埋忠明寿の門人となり鍛刀および彫を習う。「平安城正長」という銘も残る。父とともに大坂の陣に従軍したという。
- 帰国後、寛永四年(1627年)抱え主加藤嘉明の会津移付に伴い、父・長国とともに会津に移住。寛永10年(1633年)頃に「政長」に改めた。父・長国の会津打ちの多くは政長の代作代銘とされる。
- 「奥州会津住政長」
- 寛永~岩代
- 加藤嘉明の子・加藤明成は、功臣・堀主水との対立から出奔となり(会津騒動)、寛永20年(1643年)に領土返上をする。幕府は、子・加藤明友に石見吉永藩1万石を新たに与えて家名を再興させた。 この後に出羽山形藩から23万石で入ったのが保科正之である。
- 慶安元年(1648年)没。会津では「瘤政長」と呼ばれる。
- 子に陸奥大掾三善長道(初代)がいる。
政長二代:陸奥大掾
- 初代(藤四郎)次男。
- 「奥州会津住藤原政長」
- 初め「長富」と打ち、兄・長道と同居し、万治頃より作り、延宝の頃に「三善政長」と改める。
- 元禄10年(1697年)頃別居、元禄12年(1699年)秋に没した。
政長三代
- 本名三善市九衛門のち藤四郎、二代政長の子。
- 「奥州会津住政長」
- 正徳~岩代
- 父に似て彫物上手とされる。
- 享保11年(1726年)夏没。
政長四代
- 三代の子。
- 父と同銘に打つ。
- 中條道辰について修行した。
- 三善岩之助、のち藤四郎。
- 明和6年(1769年)冬没。
叔父・中條長俊
- 「奥州会津住長俊」
- 長国の養子で、会津移住後には三好政長門となる。
- のちに初代長道の後見をなし、長道受領後は別家して本姓・中條氏に復した。
- 始め十蔵、のち十左衛門。
- 延宝3年(1675年)没。※延宝5年(1677年)8月6日没とも
長重
- 「奥州会津住長重」
- 長俊の男・中條作太郎、のち作兵衛と号す。
- 延宝頃より宝永7年(1710年)正月7日没。
道辰
- 「奥州会津住道辰」、「若狭守藤原道辰」
- 長重の男・中條太朗吉長廣、のち平右衛門道辰と改む。
- 長道門。
- 元禄4年(1691年)上京して三代目伊賀守金道に師事し、若狭守を受領。これより十六葉の菊紋を切る。
- 享保15年(1730年)没。
- この工も上手で、小脇差で勝れた作品を作る。
初代和泉大掾国輝
- 三善長国の子或いは門人。
- 元祖長国より七代目と言う、五代国輝は「元祖長国ヨリ七代 和泉大掾藤原国輝」「元祖長国七代孫和泉大掾藤原国輝」等とも切り、三善藤四朗と言う。
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