荒木又右衛門


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荒木又右衛門(あらき またえもん)  

江戸時代初期の武士・剣客
新陰流の剣豪
大和郡山藩の剣術師範
鍵屋の辻の決闘での活躍で名高い

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生涯  

  • 慶長4年(1599年)、服部平左衛門の次男として伊賀服部郷荒木村に生まれる。
  • 幼名は丑之助、あるいは巳之助と伝わるが、俗伝とされる。

父・服部平左衛門  

  • 父の服部平左衛門は藤堂高虎に仕えていたが、淡路で浪人した後、備前岡山藩主の池田忠雄に召し抱えられる。
  • 父の服部平左衛門には、渡辺数馬(内蔵助)という同僚がおり、その子には、みの(女)、数馬(二代目)、源太夫があり、のちに又右衛門はみのを嫁に迎え、二代目数馬らとは義兄弟の縁となる。

荒木又右衛門の前半生  

  • 又右衛門は、兄・弥五助が池田家に仕えたこともあり、12歳のときに本多政朝の家臣・服部平兵衛の養子となっている。
  • 元和8年(1622年)、本多家が姫路城主となったあと、28歳ごろに養家を離れて浪人し、生まれ故郷の伊賀に帰っている。
  • 故郷でははじめ菊山姓、のちに荒木姓を名乗った。
  • また剣術を学び、父からは中条流、叔父の山田幸兵衛から神道流を学んだといわれている。また、柳生宗矩や柳生三厳の門人となり柳生新陰流を学んだとする。
  • その後、大和郡山藩松平忠明に召し抱えられ、剣術指南役(剣術師範)250石に取り立てられた。

渡辺源太夫の死  

  • 寛永7年(1630年)7月11日、岡山藩主・池田忠雄の寵臣で、美男子として知られた渡辺数馬(内蔵助)の息子・源太夫が、同僚の河合又五郎から懸想されてこれを拒んだために殺されるという事件が起きる。

    寛永七年庚午六月十一日晩、宰相忠雄公ハ、岡山ノ御別荘花畑ニ於テ、輝興公御馳走ノ為、町躍ヲ興シ給フ、當夜河合半左衛門倅又五郎ハ、渡邉数馬カ宅ヘ忍入、其弟源太夫ヲ刄殺ス、其意趣定カナラス、

     服部平左衛門─┬服部弥五助(岡山藩士)
       ︙    └荒木又右衛門
      ※同僚     │
       ︙    ┌みの
     渡辺内蔵助──┼渡辺数馬(二代)
            │
      池田忠雄→ └渡辺源太夫(忠雄小姓・寵臣)
              ↑※横恋慕
    ┬河合半左衛門─┬河合又五郎(岡山藩士)
    └河合甚左衛門 └妹
             │
             桜井半兵衛(霞の半兵衛)
    
    
  • 河合又五郎は江戸に逃げて旗本の安藤次右衛門正珍にかくまわれる。
    安藤正珍(あんどうまさよし)は、江戸時代前期の旗本。阿久和安藤家(あくわ あんどうけ)3代。御小姓組、槍奉行および諸国巡視役。寛永10年(1633年)に神尾守勝、近藤用行、朽木友綱と宇治採茶使を務める。河合又五郎を江戸屋敷で匿ったことから、久世広当、阿倍正之と共に寛永寺へ百日間の寺入りを命ぜられた。安藤正珍の父・安藤正次には「岩突きの槍」の逸話が残る。
  • 寵臣を殺された池田忠雄は、河合又五郎の身柄引き渡しを求めたが拒まれたため、両者の間で緊張状態となってしまう。江戸幕府は、喧嘩両成敗として事件の幕引きをねらい、旗本たちの謹慎と河合又五郎の江戸追放を決定する。
  • この間、寛永9年(1632年)4月に池田忠雄が天然痘(疱瘡)で急死し、家督は長男・池田光仲が継いだが、幼少であることを理由に因幡鳥取藩に移封されてしまう。池田忠雄は又五郎を討つよう遺言しており、源太夫の兄・数馬は上意討ちの内意を含み、鳥取への国替えには加わらず脱藩して仇討ちの旅に出たという。
  • 剣術が未熟であった渡辺数馬は、寛永10年(1633年)ごろに義兄の荒木又右衛門に助太刀を要請し、又右衛門は快諾して郡山藩を退身した。

鍵屋の辻の決闘  

  • 渡辺数馬と荒木又右衛門は、逃げた河合又五郎の行方を捜し回り、寛永11年(1634年)11月、又五郎が奈良の旧郡山藩士の屋敷に潜伏していることを突き止める。
  • 河合又五郎は危険を察し、再び江戸へ逃れようとする。しかし数馬と又右衛門は又五郎が伊賀路を通って江戸へ向かうことを知り、道中の鍵屋の辻で待ち伏せすることにした。
    鍵屋辻(かぎやのつじ)は、三重県伊賀市小田町・上野下幸坂町・上野西大手町に跨がる交差点。6方面から道路が集まっている。現在は「鍵屋ノ辻史跡公園」となっており、園内には荒木又右衛門の遺品や錦絵などを展示した伊賀越資料館や数馬茶屋などがある。伊賀越資料館 – 伊賀上野観光協会
  • 11月7日、渡辺数馬と荒木又右衛門は伊賀上野鍵屋の辻で河合又五郎を討ち、仇討ちの本懐を遂げた。
河合又五郎一行
河合又五郎、河合又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門、妹婿で槍の名人の桜井半兵衛などが護衛に付き、総勢11人。
待ち伏せ側
渡邊数馬、荒木又右衛門、門弟の岩本孫右衛門、川合武右衛門の4人。
  • 決闘の結果、渡辺数馬側は4人のうち1人死亡、3人負傷、河合又五郎側は11人のうち4人死亡、2人負傷、5人無傷(逃亡)だった。
  • このときの荒木又右衛門は「36人斬り」の活躍などといわれるが、これは講談などによる誇張であり、実際に斬ったのは同じ大和郡山藩の上席剣術師範・河合甚左衛門(又五郎の叔父)と尼崎藩槍術師範・桜井半兵衛の2人である。

事後  

  • 見事本懐を遂げた渡辺数馬と荒木又右衛門は世間の耳目を集めた。特に、実質的に仇討ちを主導した荒木又右衛門は賞賛を浴びた。
  • 渡辺数馬と荒木又右衛門、岩本孫右衛門は伊賀津藩藤堂家に4年間も預けられ、この間、又右衛門を鳥取藩が引き取るか、旧主の郡山藩が引き取るかで紛糾する。結局、3人は鳥取藩が引き取ることになった。
  • 寛永15年(1638年)8月12日3人は鳥取に到着し、その後妻子を呼び寄せている。しかし9月に妻子が到着すると、荒木又右衛門は8月28日に頓死したということになっており鳥取藩は荒木又右衛門の死去を公表している。又右衛門の死があまりに突然なため、毒殺説、生存隠匿説など様々な憶測がなされている。

作品  

  • この鍵屋の辻の決闘は、曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つとして名高く、歌舞伎・演劇・小説・映画など多くの作品となって語り継がれてきた。

刀剣  

荒木又右衛門佩刀  

  • この鍵屋の辻の決闘の際に、荒木又右衛門が佩用した刀についても記録が残っている。

    所佩刀 峰より一尺五寸五分斗本ノ方ニテ折ル、長サ二尺七寸五分斗、鎺本より一尺一寸七歩上リ折レ二ツニ成り居候を合せ見候 而上ニ記候寸尺ニ相成。刀ノ銘「法橋藤原來金道」
     右刀ノ折レ先年城下大火ノ節筥宮ノ内ニテ焼候。而焼刃等今ハ不見候。天保九年十一月七日渡辺数馬之末孫美田八郎方ニ罷越報仇之節之佩刀所望致一覧候。是者其節之拵之儘ニ而居申候、毎蔵報仇之日荒木岡本両家ヲ招キ彼刀を床ニ出し置候 家例之よし。

  • 差添えは宇多国光であるという。

    長二尺一寸一歩(私寸ヲ自らサシ見申候)焼刃ハ直ニも無之、乱ニも無之先直刃の乱たると申様なる刃文。銘 宇多国光(宇多国ハヨメ候ヘ共下ノ字摩滅ヨメカネ申候)

河合正宗  

  • なお「河合正宗」の異説として、仇討ちされた河合又五郎の佩刀にちなむというものがある。「河合正宗」の項を参照

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