茶臼剣
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- よく似た名前の刀剣が3本ある
茶臼剣(ちゃうすけん)
短刀
銘 則光(茶臼剣)
伝甲斐宗運所用
長九寸五分
島田美術館所蔵
由来
- 甲斐宗運が城の奥の間にこの小脇差をかけていると、ある時飼っていた猫がそれをこかしてしまい、その拍子にそばにあった茶臼にあたって切先が五分ほど刺さったという。
来歴
- もとは甲斐宗運が阿蘇大宮司家から贈られたものという。
- この茶臼を、同族で娘婿であった隈庄守昌が欲しがり何度もねだったが、宗運はこれを断っていた。
甲斐上総介敦昌の子で、隈庄城主。
- 隈庄守昌はどうしても小脇差を諦めきれず、遂に宗運の娘である妻に盗み出させてしまったことから問題が起こり大事になってしまう。
- 隈庄守昌は、宇土の本郷伯耆守を介して敵方である島津氏に内通し、阿蘇氏からの離反を画策する。これを知った阿蘇惟将は激怒し、甲斐宗運に命じて隈庄城を攻撃させる。
- 隈之庄の戦いで守昌を破ったが隈庄城は落ちなかった。その後阿蘇惟将は諸将に再び出陣を命じ、城を攻略して守昌の一族を尽く誅殺した。
この隈庄城の戦いは永禄8年(1565年)のこととされるが、諸説あり混乱している。
最期
- 阿蘇氏への忠節を頑ななまでに貫いた甲斐宗運は、主家を裏切ろうとする者や主家の政策に背こうとする者を容赦なく粛清した。それは息子とて例外ではなく、日向国の伊東義祐への接近を試みた二男親正、三男宣成を誅殺し、四男直武を追放している。
- これに反発して嫡男の親英(甲斐宗立)が宗運の暗殺をもくろんだが、露見する。本来はこれも誅殺すべきであるが、嫡男であったため家臣たちの嘆願により思いとどまった。
- しかし親英の妻は大いに恐れ、「舅(宗運)は必ず夫を成敗する」と考え、木山備後守惟久の室となっていた娘に命じ、宗運の毒殺を実行させたという。
- 実は親英の妻は阿蘇氏家臣黒仁田親定の娘であったが、黒仁田親定はかつて伊東氏に内通し、宗運によって暗殺されていた。しかも親定を殺害するにあたり、宗運は親英の妻に「父の殺害を決して怨まず、また宗運に復讐を企てない」旨を祖母山大明神の名にかけて誓約させていた。そのため、親英の妻は自らの娘(宗運の孫)に毒殺を行わせたという。
- 天正13年(1585年)7月3日甲斐宗運は71歳で死去。
- 本刀「茶臼剣」は、その後肥後熊本に入部した細川家に伝わったのか、明治初期には細川忠興の五男興孝に始まる長岡刑部家の細川興増男爵が所持していた。
- その後、島田美術館所蔵となった。
同館は熊本城顕彰会常務理事、武蔵会会長を務めた島田真富が収集した古美術品を中心に収蔵、展示しており、とくに宮本武蔵の遺墨・遺品が充実している。
甲斐宗立と足手荒神
- 宗運の死後、嫡男甲斐宗立は阿蘇氏の筆頭家老となる。
- 亡き宗運は阿蘇氏の本拠地・矢部に篭り守勢に徹するべしと遺命していたが、宗立はこれを破り天正13年(1585年)に島津氏の花の山城を攻撃し、反撃を招いてしまう。
- 逆に甲佐城や堅志田城を落とされ、居城の御船城を放棄したのちに隈庄城を開城して降伏するが、和平交渉中に捕らえられ八代へ連行される。この後天正15年(1587年)に秀吉による九州平定が行われ、甲斐宗立は御船城城主として本領安堵される。
- しかし肥後を治めることになった佐々成政が肥後国内の検知を急がせたことから肥後国衆は成政への反発を強め、甲斐宗立は菊池武国、隈部親永ら3万5千の国人を率い、佐々成政の居城隈本城を包囲する。(肥後国人一揆)
- 成政は秀吉への救援要請を行い、立花宗茂、高橋直次、筑紫広門、鍋島直茂、安国寺恵瓊らの九州諸大名が参陣したことにより一揆軍は鎮圧された。佐々成政は一揆を招いた責任を問われ、尼崎で幽閉されたのち切腹に処されている。
足手荒神
- 一揆に失敗した甲斐宗立は、全身に傷を負いながら嘉島町上六嘉の地までたどり着き、ここで里人の手厚い看護を受ける。これに感謝した宗立は、「魂魄この世に留まり子々孫々を見守り、手足に苦しむ者を救いやるであろう」と言い残して死ぬ。
- 里人たちが霊を弔うためにその地に祠を建てたのが、甲斐神社(
足手荒神 )の始まりとされる。足手荒神である甲斐宗立公のほか、甲斐宗運や甲斐一族を祀る。 - 足手荒神は民間信仰の一つで九州を中心に全国に広がっているが、この甲斐神社は総本社であるという。
下田のイチョウ
- なお隈庄城は、天正15年(1587)4月18日島津氏追討のおりに豊臣秀吉が城内に宿泊し、付近にある下田のイチョウを見物したと記録に残る。このイチョウは樹齢650年とされ、現在国指定の天然記念物。
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