綾小路行光
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綾小路行光(あやのこうじゆきみつ)
短刀
行光作
- 相州行光作の短刀。
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由来
- 長宗我部盛親が綾小路で紛失したためという。
一説に綾小路権大納言所持にちなむというが、来歴として無理がある。詳細は後述。
来歴
長宗我部盛親
- もとは長宗我部盛親の所持。
- 長宗我部家没落後、盛親は京都で監視され謹慎生活を送る。
- 慶長19年(1614年)秋、大坂の陣を前に豊臣秀頼の誘いを受け大坂城へ入城し、長宗我部の旧名を慕いかつての旧臣や浪人を配下に収め一軍を占める。
- 夏の陣では緒戦の八尾・若江の戦いにおいて藤堂高虎隊を壊滅させるが、その後井伊直孝隊が増援に来たため盛親は大坂城へ撤退する。翌日の決戦では大坂城京橋口(北東方面)の守備についていたが、大坂方の敗戦が濃厚となると再起を図って落ち延びた。
- 盛親は京都に逃げるが、男山八幡付近に潜んでいたところを蜂須賀至鎮の家臣長坂七郎左衛門に見つかり捕らえられ、二条城へ送られる。慶長20年(1615年)5月15日、盛親は六条河原で6人の子女とともに斬首されたのち、三条河原に晒された。
- この逃走中に京都綾小路付近で本刀を取り落としてしまったという。
尾張義直
- その後井伊直孝がこれを探しだし、尾張義直に献上した。
井伊直孝は井伊直政の次男で、近江彦根藩第2代藩主。正室は蜂須賀家政の娘阿喜姫。当初家督は兄の直勝が継いだが、家中がまとまらず憂慮した家康が事態の収拾を図り、武田氏の遺臣などが直孝に配属された。また慶長20年(1615年)には井伊家の家督を継ぐよう正式に命じられ、井伊家の領地のうち彦根15万石は直孝、上野国安中3万石は直勝の領有とされた。
南部家
- 翌年元禄11年(1698年)に予定される将軍御成を控え、将軍に献上する目的で「二百枚以上の代付けの刀」を探していた尾張徳川家は、南部家から名物「亀甲貞宗」を買い求め、その返礼として「道誉一文字」と本刀「綾小路行光」の短刀を南部家へ贈った。
或時尾張家より内使を以公へ乞けるは、貞宗(亀甲貞宗)の刀買得たまひしよし、此物は我家由緒有物なるを子細有て人に與へたるものなり、今度將軍家我家に來りたまはんとなり、奉献の刀は貳百枚の折紙添にあらされば献すること不能、彼貞宗は我家由緒ある刀と云貳百枚の折紙添なれば希くは此刀を得て獻じ奉らん、若某に譲り給はゝ、幸の甚しき何れか是に如かんやと公速に承諾し彼刀を尾張家へ進せられけり。尾張家より使者を以て謝詞を述答禮として道誉一文字の太刀、綾の小路行光の短刀此二刀を送くれける、
- その後は南部家に伝来した。
異説
- 一説に、豊臣秀吉が所持し、その後石田三成から綾小路大納言へ渡ったともいう。
- しかし、三成は慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦い後に六条河原で斬首されている。
- 一方堂上家の綾小路家は、戦国時代の綾小路俊量(1518年没)の代で一度断絶している。この時までの極官は権中納言。
- その後、慶長18年(1613年)に五辻之仲の次男が綾小路高有として再興して以降、権大納言に上った人物は、11代の綾小路俊宗(元禄3年生まれ)が初出となる。
- 本刀「綾小路行光」は、上述した来歴の通り元禄11年(1698年)に尾張家から南部家に渡っている。
- つまり、この伝来は少々無理があると言わざるをえない。
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