綾小路行光
綾小路行光(あやのこうじゆきみつ)
短刀
行光作
- 相州行光作の短刀。
- 元禄期に尾張徳川家と南部家との間で行われた「亀甲貞宗」と「道誉一文字」の交換の逸話に登場する程度で、寸尺すらよくわからない。
- 享保13年(1728年)の南部藩の御什物御腰物御改の御脇差之部の一番目に「相州行光」が登場するが、それが本刀なのかどうかもわからない。
御脇差之部
一 相州行光御小脇差九寸 無銘 平作にて延宝二年極 代千五百貫文 折紙
交換で入手した「道誉一文字」も同様に御刀之部の1番目に記載しており、何らかの意味合いがあるのだと思われる。
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由来
- 長宗我部盛親が綾小路で紛失したためという。
一説に綾小路権大納言所持にちなむというが、来歴として無理がある。詳細は後述。
来歴
- もと秀吉が所持したとも言う。
- 綾小路大納言説:ページ末尾に記載しているもの。石田三成から綾小路大納言へ渡ったという
- 長宗我部盛親説:秀吉が掘り出し、長宗我部盛親へ渡ったとする
- ここでは長宗我部盛親説を書く。
綾の小路行光は、無銘の八寸六分古折紙附の名品である。此短刀は京の綾小路に於て、太閤の發見したもので、所謂御掘り出し物であつた。後に長宗我部土佐守拝領して所持せしが、慶長十九年大阪落城して土佐守は生捕られ。徳川軍の入城する時、數多生捕られし人々に伍して門内に引据えられしが、本多能登守が弟中務太夫之を見て、馬より飛び下り、土佐守が手を取て大に慰め、戦場の習とは申しながら、痛ましき御姿よと、籠手を上げて涙を拂つた。
- 後の筋書きは綾小路大納言説とほぼ同じで、昨日乱軍中に取り落としてしまったと告白したために発見するという流れになっている。
ただしこの筋書きでは告白され発見する人物は「本多能登守の弟・本多中務太夫」だとなっているが、この人物がよくわからない。本多中務大輔忠刻の事を言っているのかと思われるが、忠刻は本多忠政の嫡男(長男)であり兄はいない。弟に本多能登守忠義がいるがそれと間違えたのだろうか。とりあえず井伊家ではない。
長宗我部盛親
- もとは長宗我部盛親の所持。
- 長宗我部家没落後、盛親は京都で監視され謹慎生活を送る。
- 慶長19年(1614年)秋、大坂の陣を前に豊臣秀頼の誘いを受け大坂城へ入城し、長宗我部の旧名を慕いかつての旧臣や浪人を配下に収め一軍を占める。
- 夏の陣では緒戦の八尾・若江の戦いにおいて藤堂高虎隊を壊滅させるが、その後井伊直孝隊が増援に来たため盛親は大坂城へ撤退する。翌日の決戦では大坂城京橋口(北東方面)の守備についていたが、大坂方の敗戦が濃厚となると再起を図って落ち延びた。
- 盛親は京都に逃げるが、男山八幡付近に潜んでいたところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂七郎左衛門に見つかり捕らえられ、二条城へ送られる。慶長20年(1615年)5月15日、盛親は六条河原で6人の子女とともに斬首されたのち、三条河原に晒された。
- この逃走中に京都綾小路付近で本刀を取り落としてしまったという。
尾張義直
- その後井伊直孝がこれを探しだし、尾張義直に献上した。
井伊直孝は井伊直政の次男で、近江彦根藩第2代藩主。正室は蜂須賀家政の娘・阿喜姫。当初家督は兄の直勝が継いだが、家中がまとまらず憂慮した家康が事態の収拾を図り、武田氏の遺臣などが直孝に配属された。また慶長20年(1615年)には井伊家の家督を継ぐよう正式に命じられ、井伊家の領地のうち彦根15万石は直孝、上野国安中3万石は直勝の領有とされた。
南部家
- 翌年元禄11年(1698年)に予定される将軍御成を控え、将軍に献上する目的で「二百枚以上の代付けの刀」を探していた尾張徳川家は、南部家から名物「亀甲貞宗」を買い求め、その返礼として「道誉一文字」と本刀「綾小路行光」の短刀を南部家へ贈った。
或時尾張家より内使を以公へ乞けるは、貞宗(亀甲貞宗)の刀買得たまひしよし、此物は我家由緒有物なるを子細有て人に與へたるものなり、今度將軍家我家に來りたまはんとなり、奉献の刀は貳百枚の折紙添にあらされば献すること不能、彼貞宗は我家由緒ある刀と云貳百枚の折紙添なれば希くは此刀を得て獻じ奉らん、若某に譲り給はゝ、幸の甚しき何れか是に如かんやと公速に承諾し彼刀を尾張家へ進せられけり。尾張家より使者を以て謝詞を述答禮として道誉一文字の太刀、綾の小路行光の短刀此二刀を送くれける、
- その後は南部家に伝来した。
異説
- 一説に、豊臣秀吉が所持し、その後石田三成から綾小路大納言へ渡ったともいう。
- しかし、三成は慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦い後に六条河原で斬首されている。
- 一方堂上家の綾小路家は、戦国時代の綾小路俊量(1518年没)の代で一度断絶している。この時までの極官は権中納言。
- その後、慶長18年(1613年)に五辻之仲の次男が綾小路高有として再興して以降、権大納言に上った人物は、11代の綾小路俊宗(元禄3年生まれ)が初めてとなる。
綾小路俊宗は、父・権中納言綾小路有胤。元禄3年(1690年)に生まれ、享保9年(1724年)に正三位、享保19年(1734年)には権中納言、享保20年(1735年)には従二位、延享4年(1747年)に正二位、宝暦8年(1758年)に権大納言。
- 本刀「綾小路行光」は、上述した来歴の通り元禄10年(1697年)に尾張家から南部家に渡っている。当時綾小路俊宗は数え5歳で従五位下。関係があったとすればその父・綾小路有胤なのではないかと思われるが、権中納言で止まっている。
- つまり、この伝来は(伝承があるので何らかの関係はあったのかもしれないが)少々無理があると言わざるをえない。
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