笹切
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笹切(ささきり)
- 「笹刀」ともいう。
来歴
- 最上家重代の太刀。
- 最上氏第10代当主である最上義守が初陣の際に父から譲られたという。
最上義守は、先代最上義定の弟で中野氏を継いでいた弟義建の孫にあたる。最上義定は継室に伊達尚宗の娘を迎えており、義定が嗣子ないまま死亡すると義兄である伊達稙宗が最上家を傀儡化すべく家督相続に介入する。しかし国人たちの反発にあい、結果的に義定の縁戚にあたる義守がわずか2歳で家督を継いだ。つまり伝承が正しければ、この刀は、実父中野義清に伝わっていたことになる。
- 最上氏第11代当主は、最上義守と小野少将の娘との間に長男として生まれた最上義光が継ぐ。義光は永禄3年に元服するが、その頃には大人が7・8人がかりで動かすような大石をやすやすと転がすほどの大力であったという。
- その翌年、父の供をして高湯温泉(現蔵王温泉)へ赴き、鹿狩りのあと眠りについていたところを数十名の盗賊に襲われた。義光は先頭に立って防戦し、二人に重傷を負わせ一人と組み合って刺殺するが、その際に顔に複数の傷を受けたという。
- 義守は我が子の武勇を賞してこの「笹切」を授け、義光はこれを受け取ると感動して言葉もなく涙したという。
義光十六歳にして父義守に従ひ、高湯といふ温泉に浴すとて行くことあり、或夜強盗数十人彼の旅館に乱れ入る。家子郎等散々に拒き戦う、義光真先に進み二人に手おはせ一人と引組んで刺殺し、残る奴原追ひ散す、義守大に悦ひ重代の重宝笹刀と云ふ太刀を貞宗が作る所也義光にぞ譲りたる。是は義守が十七歳の時、楢下口の合戦に高名して、父義定が許より此太刀譲られし佳例とこそ聞えけれ、義光父が家を継きて、同国谷地の住人城取十郎義国を亡し、寒河江八沼天童上山鮭延等の地を打随へ、天正十四年大宝寺が家を滅して庄内三郡を合せて領してけり。
(藩翰譜)
笹切り
鎌槍
榊原康政所用
- 榊原康政は、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑のひとりに数えられる。
- 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの後、家康は今川氏真と断交し、尾張の織田信長と清洲同盟を結ぶ。さらに永禄7年から起こった三河一向一揆を鎮圧し、永禄9年には三河一国の統一に成功する。
- 永禄11年(1568年)、前年に嫡男義信を廃嫡し、今川家との同盟を破棄した甲斐の武田信玄が駿河侵攻を開始する。この時、家康は酒井忠次を取次役として武田氏と同盟を締結し、遠江へと侵攻する。
- 永禄11年3月27日家康は遠州形部城につづいて遠州堀川城を攻め、城にこもった土豪・農民二千人をなで斬りにしている。この際に、康政はこの鎌槍を振るって一番乗りを果たしたという。
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