油売
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油売(あぶらうり)
由来
- 天正のころ、家康が鷹狩りに出た際、油売り商人が前を横切る無礼を働いた。
- 怒った家康は佩刀を近臣西尾小左衛門吉次に渡し、油売りを無礼討ちにしろと命じた。吉次が油売りを追いかけて斬り捨てると、いかほどが歩いた後に倒れたという。
- そのためその刀を「油売り」と名づけて愛用していたが、その後西尾小左衛門吉次に与えたという。
天正の頃御鷹野の折から。 油を賣もの御路を遮り不禮のさましたれば。彼打とめよとて。御佩刀を近臣西尾小左衞門吉次に授け給ひしかば。 吉次直に追かけて切しに。 しばしがほどはあゆみ行て。 兩斷に成て倒れしかば。 その御刀を油賣と名付て秘愛せられしが。 後に吉次にたまはりぬ。
(徳川実紀)
西尾吉次
- 「西尾家譜」によると、享禄3年(1530年)に三河国東条城主吉良持広の子として生まれたという。初名は義次とされている。通称、小左衛門。
実際には、丹波籾井氏の後裔で美濃西尾氏の出身だとされる。この美濃西尾氏には、美濃揖斐藩初代藩主となった西尾光教がいる。
仮に吉良持広の子であるとすると、この吉良持広の弟されるのが荒川義広ということになる。荒川義広については「鳴神兼定」の項に詳しい。
- 実父・吉良持広は松平清康の妹を妻に迎えて勢力維持をはかったが、天文4年(1535年)清康が世にいう森山崩れで横死する。
- 吉次は織田信長への人質として送られ、桶狭間の戦いを経て信長に仕えることとなる。以後安土城築城の石奉行、対武田戦に備えての徳川家への兵糧搬入や、検使役を務め、長篠の戦いにも参加している。また、徳川家康への担当取次として、家康が信長に書状を送る際は義次を宛先としていた。
- 天正10年(1582年)徳川家康の饗応役を命じられ、本能寺の変が起こるとこれを急報し、護衛をして伊賀越えを決行、家康を無事に送り届け、そのまま家康の家臣になった。
※この織田家人質から伊賀越えまでの伝は、謎が多くまた矛盾点も指摘されている。原市藩西尾氏の実態はよくわかっていない。いずれにしろ天正頃に家康の近臣となっていたことは事実のようだ。
- 天正14年(1586年)、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)より「吉」の字の偏諱を受けて「吉次」と改名した。
- 天正18年(1590年)、家康の関東移封にともない武蔵国足立郡原市に5000石の所領を与えられ、慶長4年(1599年)に従五位下・隠岐守に叙任された。
- 関ヶ原の戦いでも旗本備として功をたて、1602年に美濃国内で7000石加増され、のち武蔵原市藩を立藩する。
- 慶長11年(1606年)に伏見で死去、享年77。跡は娘婿である忠永が継いだ。
この忠永の代に、上野白井、常陸土浦、横須賀へと移っており、その後も駿河田中、信濃小諸、横須賀へと転封を繰り返した。明治維新期に一大名となった徳川家達が70万石で駿河に移ってくると、西尾家は安房・上総に所替を命じられ花房藩を立藩し、廃藩置県を迎えている。
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