水剣
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水剣(すいけん)
短刀
刃長七寸三分五厘
- 鍔にあたるところの両側に、耳形の環のついた異形なもの。
- 梨地の鞘には銀で「水剣」と書かれていたという。
由来
- 水神から授かったという伝説の剣。
来歴
- 肥前五島の大安寺住職、普宅和尚の説教に対する御礼として、大川の水神と名乗る童子が「この水剣のあるところ、必ず火焔なし」といって寄進した。
- のち、普宅和尚が薩摩伊作の西福寺に転住すると、その水剣の噂を耳にした藩主島津義久が召し上げた。
- 義久の跡を継いだ島津家久(忠恒、初代薩摩藩主)の養女、鶴寿姫(長寿院)が慶長10年(1605年)9月に松平定行(後の伊勢桑名城主)に輿入れした際に、この「水剣」をもっていった。
- のち鶴寿姫は、大乗院の快性上人に祈祷の御礼として刀を寄進した。
- その後、上人の小姓をしていたものが大坂に出て鶴屋半右衛門という商人になった。のち半右衛門は養子の(亀屋)源右衛門を離縁するときにこの「水剣」を与えている。
- 源右衛門はこれをもって薩摩に下り、「水剣由来書」を添えて宝永初年(1704年~)に島津家(4代吉貴が藩主の頃という)に献上しようとするが、島津家ではすでに知るものも少なくこれを怪しんだという。
- すると快性上人の法弟である快覺和尚が蓮乗院の住職をしていたが今は隠居して栗野村に住していることがわかり、それに見分をさせたところ、これぞ正しく当家より出た水剣にマチガイなしという事になり、源右衛門はご褒美を頂戴したという。
水劍 長サ七寸三分半、鎺金、切羽、ふちかしら赤胴、目釘銀、御紋所あり、鞘梨子地、銀にて水劍との二字あり。
- しかし大正14年(1925年)調べの島津侯爵家の刀剣目録には「水剣」は見当たらない。
- それまでに同家を出たものと思われる。
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