松風
松風(まつかぜ)
- 「大ふへん者」、「
穀蔵院 忽之斎 」で有名な、前田慶次の愛馬。慶次は松風という早馬を持ちければ、兼て裏門に立て置きたりしが、其儘打乗て行方しらず成にけり。
松風の名馬を、京にて夏の比毎夕河原へ冷やしに出ける。其馬捕の腰に烏帽子を付けさせたり。路にて往來の大名小名に逢ふ時、見事なる馬なれば立戻り、誰の馬ぞと尋るに、彼馬其儘烏帽子引かぶり、足拍子を踏んで、此鹿毛と申は、あかいちょつかい革袴、茨がくれの鐵冑、鶏のとつさか立鳥帽子、前田慶次の馬にて候と、幸若を舞、通る人尋る度に如此。
- 黒い野生馬であったという。
前田慶次郎
- 慶次は、前田慶次郎利益。
- 諱は利大、利太とも。
- 滝川一益の子とも、一益の従兄弟・益氏の子とも言う。
一、前田慶次郎と云ひし仁は、元來瀧川一益のをひに瀧川儀太夫と云人在、此子を腹に持て、前田五郎兵衛殿とて利家公の舎弟の方へ嫁して生めり。幸ひ五郎兵衛殿に子無きに依て、慶次郎を實子の様にめされたりと、神戸清庵語る。慶次殿上杉景勝にて壹萬石取、白石にて鑓を合、武勇の場數人に超えたる人なり。ひやうげ人にて何事も人に替り、出家のやうなるきやうがいなり。奥州福島にて腹中を煩、十死一生なる時、ひぞうの子小姓に、其方は我死にたらば追腹を可切か、定て切るまじきとのたまへば、子小姓は口惜き事をのたまふ物かな、我等心中御目にかけんと云まゝに、押はだぬぎ、腹十文字に切て、ふえをかき當座に死す。慶次殿こはそも何事ぞ、たはむれにいひたれば、せがれの心にて惡く心得、ぐびんなる次第とてなげかれけるが、一兩日の内になげき死にしなれけるとなり。
- 前田利家の兄・利久の養子となったが、利家とは反りが合わず出奔し、京都に隠棲していた。
- 関ヶ原の戦いの前に、山城守直江兼続の誘いに応じ会津上杉家に仕える。この時、京都伏見から米沢へと下向した際の事跡を自ら日記「前田慶次道中日記」に認めている。
- 新編信濃史料叢書 第10巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション 前田慶次道中日記/79
- 置賜文化 (32) - 国立国会図書館デジタルコレクション 五、前田慶次道中日記 / 中村忠雄/p15~24
- 長谷堂の戦いで大いに名をあげるが、諸大名の誘いを蹴り米沢に「無苦庵」を建てて隠棲したという。
慶次郎利太、初名利益、初通名宗兵衛と稱す。或慶次とす、謹按皆常に郎の字を書き唱へるか故に、書記にも移たると見ゆ。天正十三年阿尾城攻衆の内に前田宗兵衛利益とあり。實は瀧川左近將監從子儀太夫益氏の子也。或一益の子と云。眞偽一統志云、益氏討死の後懐妾利久の室と成、故出生の息自然に利久の養子と成とあり、考に附す。利久君養子とし女婿とす。初信長公に仕へ、後高徳公に從ひ、六千石の地を與へ玉ふ。高徳公譜略云、能州を賜ふ時御越、利久君へ七千石被進處、利益へ五千石御渡と見えたり。能州松尾に居せらる。
後禄を辭し、京師に至れり。寺町通に僑居とあり。慶長五年關原の軍起りし前奥州へ至り、國老直江山城守兼續が吹擧を以て、上杉景勝に仕へ、二千石を領す。兼續に屬せしめ、出羽最上家の兵と戰ひ、天童城攻等に奮戰屢功あり。戰功の事春日山日記等に詳也。又武邊咄聞書に高徳公を憚り出家して穀蔵院ひよつと齋と更名せられし事あり。景勝封を米澤へ移されし時處士となる。諸侯其勇名を聞て徴せども並に就かす。奥州會津にて卒しぬ。卒年未詳。或云農夫田畑村大隅が家にて卒せしとも云。米澤志曰川伏の隠居曩東山上村戸の内に山鷺の館と云あり。此所前田慶次郎屋敷とあり。石碑は善光寺にあり。堂守松田山善光寺は延徳寺末寺とあり。謹按山鷺館は、嘗官士の時の第地なるを傳稱する成べし。性豪爽にして驍勇なり。武邊咄に載す。又恢諧にして能詩を賦し、五言絶句を即時に作て、林泉寺方大に進覧すること混見滴寫に見えたり。又大島維直曰、嘗上杉侯家士山田長三郎云、慶次君か詩集若干あり。其藩中に行はる。又肉書の韻礎一本あり、公庫に現存すと云。詩集我藩に傳はらざること遺憾餘りあるなり。並に連歌に工なり。昌叱の輩と唱和をなすと云一本御系譜に一句を載するあり。因に附す前田慶次君嘗遊法橋昌叱宅、雪折やつれなき杉の下涼み、慶次殿、時雨行かと蝉の啼山、昌叱。室同宗五郎兵衛安勝君女也。利久君幼女として利太に妻す。卒年未詳、一男五女あり。
高徳公は前田利家。阿尾城は富山県氷見市阿尾。「混見滴」は加賀藩士・吉田守尚による編纂された8巻の書物で加賀藩史料で多く引用される。昌叱(法橋昌叱)は連歌師。
- 生没年ともに未詳だが、加賀藩史料では「考拠摘録」を引いて慶長10年(1605年)11月9日没、享年73とする。
慶長十年十一月九日巳の半刻、享年七十三にて卒したまへり。則刈布安樂寺に葬る。其林中に一廟を築き、方四尺餘、高五尺之石碑を建、銘に龍砕軒不便齋一夢庵主と記せり。
野崎八左衛門知通の「考拠摘録」によれば、病を発症して大和國に移住したが、上京して「犯惑」に及ぶことが度々あったため、前田利長の命により大和刈布(かりめ)に蟄居させられたという。のち仏門に入り、自ら「龍砕軒不便齋」と名乗ったという。
なお「刈布安樂寺」は現在となっては不明であり場所がわかっていない。原文では「大和國刈布村と云所は、同國の舊跡當麻寺の山を、左りに西へ二里を行て里あり、茂林と云。夫より南に一里あり。」と記す。
系譜
- 長男:安太夫正虎。あるいは安虎という。はじめ加賀藩にて二千石を領する。光悦流の書を能くした。「前田家之記」(安太夫筆記)を著したという。七尾にて没。子はなく家は絶えた。
- 女:花。はじめ瑞龍公こと利長に宮仕えし、有賀左京直治に嫁したのち、大聖寺藩士・山本彌左衛門に再嫁したという。
- 女:名は不明。北条采女(幼名少三郎)に嫁した。この北条采女は父が安房守北条氏邦。父・氏邦の死後、大徳寺の喝食となっていたところ、還俗し采女(北条庄三郎)と名乗ったという。
- 子は主殿介と名乗り加賀藩に仕えたが、その死により家は絶えた。なおこの主殿介の他に娘がおり、寺西彦丞(十藏)に嫁したという。しかし寺西家傳では主殿の妻が再嫁したと書かれているという。
- 女:長谷川三右衛門に嫁したという。
- 女:平野彌右衛門に嫁したという。
- 女:富山藩士・戸田彌五左衛門正秋に嫁した。この戸田正秋ははじめ加藤嘉明に仕え、のち微妙公こと前田利常、次いで富山藩主(前田利次)に仕えたという。
- ※Wikipediaでは「戸田方勝(方邦)」とする
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