末期行光
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末期行光(まつごゆきみつ)
短刀
無銘
加州行光の作
- 平造りで差表に櫃内の剣巻き竜、裏に腰樋の中の素剣の彫り物がある。
由来
- 天正10年(1582年)6月2日本能寺の変が起こった時、織田信長の嫡男織田信忠は京都妙覚寺にいた。
- はじめ報を聞き本能寺へ駆けつけるが、信長自害の知らせを受けて光秀を迎え撃つべく、異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、側近斎藤利治、京都所司代村井貞勝らと共に、儲君(皇太子)誠仁親王の居宅である二条新御所に移動する。
- 誠仁親王を脱出させると、手回りのわずかな軍兵とともに篭城し、善戦を見せるが、明智軍の伊勢貞興が攻め寄せると、衆寡敵せずに自害した。
- 信忠は、討ち死にするときまだ3歳であった嫡子三法師を前田玄以に託し、美濃岐阜へ落ち延びさせる。
且つ叉中將どの御切腹の刻、前田玄以斎を召され、仰せに曰く、汝急ぎ岐阜へ歸つて、簾中竝に三歳の幼子三法師丸を補佐し、尾州清須へ送り入れ、長谷川丹波守に談じて守立つべき由仰付けられ、玄以即ち二條を退去し、濃州に歸り畢んぬ。
- このとき三法師に形見として与えた短刀が本刀である。
- 信忠の介錯は鎌田新介が務め、二条御所の縁の板を剥がさせて自らの遺骸を隠すように命じた。享年26。父信長同様に、その首が明智方に発見されることはなかった。
- 「土屋押形」所載
末期行光 加判 太閤記 信忠切腹ノ時三法師ニ遺物
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