有動刀


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有動刀(うどうとう)  

関兼常作

  • 濃州関の兼常の作
    • 兼常は数代あり、寛正から文明頃にかけて活躍した兼常は「手棒兼常」の異名をとり切れ味の素晴らしさで知られる。元亀二年七月(1571年)には織田信長から鍛冶職安堵の朱印状を賜り、「関鍛冶総領事」に任じられ関鍛冶の頭領とされたという。
  • 斉藤義龍が病気と称して異母弟2人を殺害した時に用いた刀。

来歴  

  • かつてマムシの道三と恐れられた斎藤道三も、老後は衰えたのか子どもたちの扱いに差を生じ、長子義龍はそれを不満に感じるようになったという。

    道三は知恵の鏡も曇り、新九郎(義龍)は耄者(おいぼれ)と計り心得て、弟二人を利口の者哉と崇敬して、三男喜平次を一色右兵衛大輔になし、居ながら、官を進められ、ケ様に候間、弟ども勝ちに乗って奢り、蔑如に持ち扱ひ候。

    長子義龍の母である深芳野は、かつて主君土岐頼芸の妾で身ごもったまま道三に下されたという説がある。また次男孫四郎、三男喜平次は道三の正室の小見の方から生まれた兄弟であり、土岐頼芸追放後、道三はこの兄弟を可愛がるようになったと伝わる。

  • 弘治元年(1555年)、義龍は叔父とされる長井道利と共謀し、道三が稲葉山下の私邸に降りた隙を見計らい、道三が寵愛していた孫四郎・喜平次らを稲葉山城内に呼び寄せた。

    十月十三日より作病を構へ、奥へ引き入り、平臥候へき、霜月廿弐日、山城道三、山下の私宅へ下られ候、爰にて、伯父の長井隼人正を使にて、弟二人のかたへ申し遣はす趣、既に重病、時を期する事に候、対面候て一言申し度事候、入来候へかしと申し送り候

  • この時義龍は、日根野備中守弘就にかねてから大物切れという評判だったこの「有動刀」を与えて斬らせたところ、一刀で2名を両断したという。

    長井隼人正巧みを廻し、異見申すところに、同心にて、則ち二人の弟ども、新九郎所へ罷り来るなり、長井隼人正、次の間に刀を置く、是れを見て、兄弟の者も同じ如く、次の間に刀をおく、奥の間へ入るなり、態と盃をと候て、振舞を出だし、日根野備中、名誉の物切のふと刀、作手棒兼常、抜き持ち、上座に候へつる孫四郎を切り臥せ、又、右兵衛大輔を切り殺し、年来の愁眉を開き、則ち山下にこれある山城道三かたへ、右の趣申し遣はすところ、仰天致し、肝を消すこと限り無し

  • 美濃では道三と義龍の争いが起こり、弘治2年(1556年)に長良川で激突。道三は破れ、義龍が美濃を相続することとなった(長良川の戦い)。この時婿にあたる信長は救援に駆けつけたというが、義龍の軍勢に阻まれ退却している。
  • こののち信長は美濃に何度も出兵するが、美濃の強兵と稲葉山に阻まれそのたびに退いている。
  • 信長が美濃を攻略するのは、義龍没後に龍興が継いだ後、竹中半兵衛がわずか16人(17人とも)で稲葉山城を乗っ取るという伝説のさらに後、道三没から10年を経た永禄10年(1567年)のことであった。
  • 孫四郎・喜平次の兄弟を討った「有動刀」は、のちに竹中半兵衛が入手したともいう。

斎藤道三  

  • なお斎藤道三は、従来一代で油売りから戦国大名にのし上がった立志伝が知られていた。
    現代では主に司馬遼太郎の「国盗り物語」により知られるが、すでに江戸時代寛永年間には「美濃国諸旧記」で一代説が記されている。この一代説は、その後、坂口安吾「梟雄」、海音寺潮五郎「武将列伝 戦国揺籃篇」、司馬遼太郎の前出小説などにより著名な説となりイメージが形成された。

    松波、代々上北面の侍なりしが、基宗が代に至り、故ありて、山城國乙訓郡西の岡に居住す。道三は、永正元甲子年五月出生。童名峯丸といふ。(略)父基宗、峯丸が生得只ならざるを察して、凡下になし置かんも残念なりとて、峯丸十一歳の春出家させ、京都妙覺寺の日善上人の弟子となし、法蓮房と號す。

  • しかし昭和48年(1973年)の「岐阜県史 史料編 古代・中世四」に収録された六角承禎の条書「六角承禎条書写」(春日力氏所蔵文書)の一文が決定打となって一代説は否定されることとなった。

    一、彼斉治(治部大輔義龍)身上之儀 祖父新左衛門尉者、京都妙覚寺法花坊主落にて、西村与申、長井弥二郎所へ罷出、濃州錯乱之砌、心はしをも仕候て、次第ニひいて候て、長井同名ニなり、又父左近太夫(斎藤利政・斎藤道三)代々成惣領を討殺、諸職を奪取、彼者斉藤同名ニ成あかり、剰次郎殿(土岐頼満か)を聟仁取、彼早世候而後、舎弟八郎殿(土岐頼芸)へ申合、井口へ引寄申、其外兄、事に左右をよせ、生害させ弟、或ハ毒害、或ハ隠害にて、悉相果候、其因果歴然之事。
    一、斉治父子及義絶、弟共く生害させ、父与及鉾、親之事取候。如此代々悪逆之体、恣ニ身上成あかり、可有長久哉。

  • つまり、斎藤義龍の祖父は西村と言い京都妙覚寺にいた法華宗信者であり、美濃の重臣・長井家(長井弥二郎所)に出入りしていたという。美濃国で大規模な紛争が起きたさい、様々な事に奔走しているうち頭角を現し、のち長井と同じ姓(長井同名)を拝領した。
  • その後、義龍の父・左近太夫(斎藤道三として知られる人物。斎藤利政)は、土岐頼満(頼充)に娘を嫁がせた上で毒殺し、惣領を討ち殺して諸職を奪い取るなどし、下剋上を果たして斎藤の名字(斉藤同名)を名乗ったとする。その左近太夫・道三の子が斎藤義龍(斎藤高政)である。

新左衛門尉(妙覚寺僧侶法蓮房・長井)──左近太夫(斎藤利政・道三)──治部大輔(斎藤高政・義龍)

  • つまり、従来道三一代で成り上がったとされる美濃国盗りは、新左衛門尉(西村・長井)および左近太夫(斎藤道三)の二代により行われたとする説が有力となっている。

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