古備前成高(刀工)
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成高(なりたか)
- 鎌倉幕府を開いた源頼朝に見出される。
- 頼朝は、成高作の太刀を功績を上げた御家人とくに側近である佐原義連、工藤祐時、那須与一などに与えている。
- 在銘品は現在4口のみが伝わる。
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佐原義連所持(会津)
- 「蘆名成高」
- 佐原十郎義連は鵯越にも参加した武将。
- 相模国の三浦義明の七男で、相模国衣笠城東南の佐原に住し、佐原を名乗る。
- 奥州合戦にも従軍しており、のち陸奥会津の地と成高の太刀を与えられている。建久3年(1192年)に左衛門尉に任ぜられる。
- 成高はのち佐原義連の孫、光盛に伝わる。佐原光盛は相模国蘆名にちなみ、蘆名氏を名乗り会津蘆名氏の祖となった。
- 会津蘆名氏は戦国時代に滅亡するが、成高の太刀は現在まで伝えられている。
太刀
銘 成高
刃長二尺七寸二分(82.4cm)
- 鎬造り、腰反り高く、小峰。鋩子は直ぐに小丸。先わずかに掃き掛ける。生ぶ中心、先浅い栗尻。目釘孔2個。佩表、目釘孔上の棟寄りに二字銘。
- 「日本刀大百科事典」では「蘆名成高」として紹介し、米山高道氏蔵。
工藤祐時所持
- 工藤祐時は曽我兄弟に討たれた工藤祐経の子で、父子ともに頼朝の側近として仕えた。父祐経が討たれた時、のちの祐時こと犬房丸は8歳ながら曾我時致の処刑を訴えでたという。
- 「防長古器考」には、祐時が拝領した太刀を末裔の工藤就堯が石州に在国の際に仕えた益田家に贈ったとし、近年まで益田家に伝えられてきた。
- 太刀 銘成高
- 鎬造、庵棟。
那須与一所持
- 那須与一の佩刀と伝えられる。
- 那須与一は坂東一の弓取りと称され、屋島の戦いで平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げ頼朝から成高の太刀を拝領している。
- 拵えともども伝えられ、現在は栃木県立博物館所蔵。
- 成高は一般的に「なりたか」だが、那須家では「しげたか」と呼んでいたという。
- 文化財データベース:太刀〈銘成高/〉
- 「那須家軍器図一巻」が附属する。那須家に伝来した武器武具を図し、法量、品質形状を注記したもので、天明七年(一七八九)那須資明の奥書がある。
- 昭和62年(1987年)6月6日、重要文化財指定。
- 「柄屈がり(つかまがり)」の異名がある。柄が柄頭より3分の1ほどから急に曲がり、逆「へ」の字形となっているためである。
磐田市
- 鎬造り、庵棟、腰反り高く、中峰。生ぶ中心、目釘孔1個。
- 今川義元が織田信長に討たれると、永禄11年(1568年)ごろから武田信玄は駿河侵攻を開始する。侵攻は三次にわたって繰り返され、この最中元亀元年(1570年)家康は武田方の追撃を受け見附まで逃げ延びる。この時に見附宿の上村清兵衛は見附宿に火を放って敵を阻み、天竜川を渡って家康を逃げ延びさせた。
- この時の功を賞し、上村清兵衛が徳川家康から拝領した太刀という。
- 家康はその後も見附を通るたびに清兵衛宅に立ち寄り、清兵衛は自慢の冷酒を勧めたところ家康は気に入り、以後「冷酒清兵衛」と呼んだという。
- 静岡県指定文化財
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