岩突きの槍
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岩突きの槍(いわつきのやり)
大身笹穂槍
銘 正利
一尺二寸七分
- 「岩突槍」
- 正利は坂倉関の刀工。銘は「正利」の二字銘。
- 丹羽氏次所有の槍。
来歴
- 丹羽氏次は元織田信長の家臣。
丹羽氏次は岩崎丹羽家。一色氏明が尾張国丹羽庄に定着し、地名をとり丹羽氏を称したのに始まる。同じ織田家臣で高名な丹羽長秀の児玉丹羽氏とは血縁関係はない。児玉丹羽氏は桓武天皇の皇子良岑安世の末裔で、本姓良岑氏を称する。
- 信忠、信雄と仕えるが、勘気を被ったため、翌天正11年(1583年)に徳川家康の家臣となった。
- 小牧・長久手の戦いでは、岩崎城を弟の氏重に守らせ、自身は家康に従い小牧に赴いて武功を挙げている。
- ある時、一尺二寸七分のこの槍をふるって敵を一突きしたところ、敵の甲冑を突き抜け背後にあった岩まで突き刺したという。おそらく小牧・長久手の戦いの際の逸話と思われる。
- のち家康の取り成しで再び信雄に仕えるが、小田原征伐後に信雄が改易されると秀吉の命により三好秀次に仕える。この時長男の氏資を家康に仕えさせている。
- 関ヶ原の戦いが始まると氏次は東軍に属し、家康より尾張・三河を結ぶ重要拠点、岩崎城の守備固めを命じられる。
- 妻木城の防備を強化する工事のほか、関ヶ原本戦にも参陣した功により三河伊保1万石に封じられ初代藩主となった。
安藤正次「岩突きの槍」
槍
安藤正次所用
願正寺所蔵
- 慶長15年(1610年)閏2月17日、家康は蔵王山(愛知県)で大規模な狩りを行っている。
- この時、安藤正次は槍で大猪をついたところ、後ろの岩にまで槍が突き刺さったという。
十七日藏王山に田獵し給ふ。鹿二百四十七頭。猪二十二頭かり得給ふ。その中にも阿倍四郎五郎正之は兼て射藝に達しけるが。けふも鹿猪各二頭づゝ射留たり。安藤次右衞門正次大猪を射留弓矢を賜ふ。又鎗にて大猪をつきとむ。其鎗うしろの巖にとほる。岩突といふ名をたまふ。
- 安藤正次は、三河安藤氏の分家の阿久和安藤氏の生まれ。元和元年大坂夏之陣に徳川秀忠に属し御旗奉行を務める。前田利常の陣に攻撃の伝令に行った際に重傷を負い、平野で自害した。
- 大阪市平野区の願正寺には安藤正次の墓と、「岩突きの槍」が残る。
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