城井兼光
城井兼光(きいかねみつ)
- 昔から非常によく切れた(大切物)と申し伝えられていたという。
- 鎬造り、庵棟、大鋒
- 棒樋の彫物、樋先やや下がる
- 中心大磨上、先栗尻。目釘孔6個、うち4個を埋める
由来
- 御当家有職故実
備前兼光御刀 弐尺弐寸三分半 代金二十枚 別書一説三十五枚 松山兼定ともいふ
長政公御指料御秘蔵にて常ニ御指被遊耳川にても此御刀なり 天正十六年豊前国中津御城ニ而城井中務鎮房を御切害被成候しは此御刀なり 委細御家譜に有之故略之 勝たる利刀なり 此後ハ城井兼光ともいひし也
- 「松井兼光」の由来は不明。
- 天正16年(1588年)4月、黒田長政は城井鎮房(宇都宮鎮房)を中津城に招き、酒宴の席で謀殺する。また城下合元寺に留め置かれた家臣団も同じく黒田勢との斬り合いの末、全員が討ち取られた。
- この時に使われたのが兼光で、以降黒田家では「城井兼光」と呼んだという。
一、備前兼光御刀 二尺二寸三歩代金二十枚
松山兼光とて、長政公御指料所々御陣中御指被成由
天正十六年、豊前国にて城井中努鎮房を、中津御城にて御切害被成之も此御刀也、委細御家譜ニ有之故略之、勝れたる利刀也、此後城井兼光共言シとなり、甲斐守長興公被進之、今の甲斐守長重公ヨリ光之公江被進之
- この「委細御家譜ニ有之」通り、細かな描写が「黒田家譜」に書かれている。
長政かねて議定の如く肴と仰けるが、御聲次の間に聞えざりしか、何とかしたりけん、少猶豫しければ、長政ふたゝび太郎兵衛肴と高聲に仰ける。其時野村太郎兵衛あつとこたへて肴を持出、直に城井が前に行、三方を城井になげかけつゝとよりて一太刀うつ、城井が左の額より目の下迄切付る。機能心得たりとて盃を捨て、脇差を半分ぬきかけ、立あがらんとする所を、長政側におかれし刀をぬき、透間もなく打付らる。利劔にてつよく切られしにや、左の肩より兩乳の間をわり、後の大骨かけて、右の横腹まで切付られければ、さしもに猛き中務も、忽うつふしに成てぞ臥たりける。
ただし刀工名は書かれていない。
- なお「御当家有職故実」では「耳川にても此御刀なり」と書かれているが、こちらについては刀工名がはっきりと書かれている。しかし尺寸が異なっている。
その中に強力なる敵一人、三尺ばかりの太刀を以て、長政の刀を打落して岸へ引あがりけるを、長政馬に聲をかけ、むながひとひとしき岸を急に乗りあげ、脇指を抜て和泉守兼定作、一尺七寸あり。切あひ、終に其敵を打取、長政右に打おとされ給ふ刀は、後家臣ども取りあげける、備前兼光の刀なり。
- 中津城下の合元寺(ごうがんじ)に控えていた城井家臣の家老・渡辺右京進らは、鎮房暗殺時にことごとく討死した。合元寺の門前の白壁には血痕が残り、何度塗り替えても血痕が浮き出るためついに赤壁に塗り替えたといわれる。合元寺は別名「赤壁寺」と呼ばれ、現在でも合元寺の門前の壁は赤色に塗られている。
来歴
- 御当家有職故実
長政公より甲斐守長興公へ被進、今の甲斐守長重公より光之公へ被進之
- 黒田長政はこの兼光を三男で初代秋月藩主の黒田長興へ与えたが、その子長重が3代福岡藩主黒田光之へ返還している。
┌悦子(伊達宗景正室) ├富貴子(黒田長重正室) ├筑姫(酒井忠挙正室) 黒田官兵衛孝高─┬黒田長政─┬菊子(井上庸名室) ├黒田左兵衛 └熊之助 │ ├黒田長清【筑前直方藩】 │【筑前福岡藩】 ├黒田綱政(東蓮寺藩→福岡藩4代) ├黒田忠之(2代)──┬黒田光之(3代)──┴黒田綱之(廃嫡) │ └黒田之勝(→東蓮寺藩) │ ├徳(榊原忠次室) │ │【筑前秋月藩】 ├黒田長興(甲斐守)─┬犬万(夭折) │ ├黒田長重(甲斐守) │ ├彦子(藤堂高通正室) │ ├さん(小笠原長祐正室) │ ├娘(小笠原真方正室) │ └勝子(三奈木黒田一貫室、黒田長貞の祖母) │ │【筑前東蓮寺藩】 ├黒田高政(薩摩守)━━黒田之勝(忠之次男) │ ├亀子(池田輝興室) └黒田甚四郎政冬(早逝)
黒田長興の母は栄姫。慶長15年(1610年)生まれ。寛文5年(1665年)江戸藩邸にて56歳で死去。長政は、一時期嫡男忠之ではなく長興への家督相続を考えていたため、忠之との仲は悪かったという。子の長重の母は佐竹義隆の娘亀子(法流院)。すでに宗家も光之に代わっていたこともあって宗家とは和解しており、正室にも光之の娘富貴子(勝真院)を迎えている。
- 現在は福岡県立博物館で所蔵。
- 合元寺HP ※2015年3月確認
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