善阿弥
善阿弥(ぜんあみ)
室町時代の作庭師
同朋衆
河原者出身ながら足利義政に重用された
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善阿弥
概要
- 河原者の出身で、庭師として足利義政に重用された。
年齢八三。老而益健之由被仰出。音阿妙又河原善阿弥益健之由。
(蔭凉軒日録 文正元年1月18日条)蔭涼軒御成、蔭涼庭頭可被栽葉樹之由被仰出也、善阿承尊命而来也。
(蔭凉軒日録 長禄2年2月24日条)
- ”善阿弥”の名で登場するのは70歳半ばと見られており、文正元年(1466年)時点で83歳だったというが、その前半生はよくわかっていない。
- 寛正元年(1460年)~同4年に善阿弥が病を得て床につくと、義政は使いを送って薬を与え、症状を尋ねさせている。
- 文明14年(1482年)9月に推定97歳で死去。そのため慈照寺の作庭には関わっていない。
前半生
- 死亡年から逆算すると、至徳2年/元中2年(1385年)の生まれとなる。
- 一説に、河原者の頭領であった「虎菊」ではないかとされる。虎菊(または異体字の乕)の名は永享11年(1439年)頃から登場する。
庭前松、大光明寺超願寺等之松河原者席召参令見之
(看聞御記 永享5年10月8日条)少林院御成。御点心。於双桂庵御斎。真如堂御参詣。雑木可移栽御庭之由伺之。乃虎菊所白也。
(蔭凉軒日録 永享11年9月25日条)
関わった庭と評価
- 長禄2年(1458年)の相国寺蔭涼軒、寛正2年(1461年)の花の御所泉殿、その翌年の高倉御所泉水、文正元年(1466年)の相国寺山内睡隠軒などが善阿弥作とされる。
- 当時の資料にも「築山引水、妙手無比倫」(山を築き水を引く妙手は比類なし)、「為山植梅排石天下第一云爾」(山を作り樹を植え石をならぶ、天下第一という)などと高く評されている。
系譜
- 子の小四郎(二代目善阿弥、小善)らも庭師として仕え、慈照寺(銀閣寺)の庭園は彼の子の二郎、三郎、及び彼の孫の又四郎による作品である。
- 又四郎は作庭の故事来歴や吉凶方位、風水なども学問として身につけており、慈照院の景徐周麟が「今時、円顱方袍の所為は、屠者に及ばず」とまで評している。
関連項目
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