南泉国宗


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 南泉国宗(なんせんくにむね)

脇差
刃長一尺八寸

  • 備前三郎国宗作。
    備前長船出身の刀工で、後年鎌倉に移住して相州鍛冶の基礎を築いた。
  • 刃長は一尺八寸にすぎないが、物切れとして有名であった。

 由来

  • 不明

 来歴

  • 明徳2年(1391年)12月30日の明徳の乱の際、赤松左馬介満則は兄の赤松義則とともに二条猪熊において奮戦して山名軍に勝利するも、自身は討ち死にする。その際に帯びていたのがこの国宗であったという。
  • この時、赤松満則は26歳で、残された遺児赤松満政は叔父の義則に養育された。
    赤松義則は出家後赤松三尺入道と称された。また義則の嫡男赤松満祐もまた、三尺入道と呼ばれた。
          【七条】
    赤松円心─┬範資──光則──満弘(範次)─教弘(範久)─元久─政資─義村
         │
         │【春日部】
         ├貞範──頼範─┬満則──貞村──教貞
         │       └持貞──家貞
         │
         │
         ├則祐─┬義則─┬満祐──教康
         │   │   ├義雅──時勝──政則─┯義村─┬晴政─┬義祐──則房──則英
         ├氏範 │   ├則繁         │   │   └則家
         │   │   ├祐尚──則尚     │   └政元─┬正満──正澄
         └氏康 │   └竜門寺直操      │       ├政範──政宗
             │               │       ├政直
             │               │       ├政茂
             │               │       └横山義祐
             │               └村秀──政秀─┬広貞──曽谷祐則
             │                       ├祐高
             │                       └斎村政広
             │
             │【大河内】
             ├満則──満政─┬満直
             │       └教政
             │【有馬】
             └有馬義祐──有馬持家──有馬元家
    
    【赤松家当主】
    家範─久範─茂則─則村(円心)─範資─則祐─義則─満祐─┐
                                │
    ┌───────────────────────────┘
    └─政則─義村─晴政─義祐─則房─則英
    
  • 嘉吉元年(1441年)、義則の子赤松満祐が6代将軍義教を殺害すると(嘉吉の乱)、管領細川持之は細川氏、山名氏らを動員し赤松領に侵攻させる。赤松満祐の軍勢は当初幕府軍を圧倒したが、赤松討伐の綸旨が出され満祐が朝敵とされると満祐は山城の城山城に籠もり、自害した。
  • 赤松満政は、この頃には将軍近習として力をつけており、この時も満祐追討軍に加わっている。戦後満政の赤松大河内家が惣領家となった。
  • しかし戦後処理において播磨守護は山名宗全のものとなり、明石・加東・美嚢三郡の分郡守護の座も奪われると山名軍と争うことになる。やがて文安2年(1445年)1月に赤松満政追討の治罰綸旨が下り、4月24日に寝返った従兄弟の有馬持家によって摂津有馬で討たれた。
  • これにより赤松氏は播磨での勢力を失うが、嘉吉の乱の際に赤松満政が保護していた満祐の弟義雅の子、時勝の遺児千代丸(赤松政則)がのち赤松家9代当主となり、加賀半国・播磨・美作・備前を支配する守護大名へと復興させた。
  • 一代で赤松氏の全盛期を築き上げた赤松政則は従三位まで登り詰めるが、一方で猿楽や和歌、連歌に秀でた文化人でもあり、また刀工としても名を残した。
  • 備前長船派末備前の宗光(4代右京亮勝光の弟、左京進宗光)に師事し、主に被官への恩賞として与えたものが残る。多くが播磨国書写坂本、美作国大原、京都の3ヶ所で作られている。

    播磨守護赤松政則、自ら刀を作りて、広峰純長に与ふ、
    (大日本史料 延徳元年(1489年)12月11日条)

    赤松松泉院殿御作之刀之事
     松泉院殿様純長(廣峰)被下候御作刀次第事
    一寸二尺三寸(ママ
    一やきは ひたつら
    一銘之事
     爲廣峯九郎次郎源純長
     兵部少輔源朝臣政則作
       延徳元年十二月十一日
    右、太略此分にて候、何時此面相申候刀、相留可申者也、和泉堺牢人之時、此刀見申候也、
          廣嶺九郎左衛門尉職喜(花押)

  • 南泉国宗の脇差は、のち赤松左衛門佐が太子堂で自害した時に所持していたとされるが詳細は不明。

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