千頭割
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千頭割(せんずわり)
大脇差
添え銘 せんずわり
権房五左衛門所持
由来
- 享保のころ、旗本の本多唐之助の家中の惣兵衛が夜道を歩いていると、北国で名のある強盗・権房五左衛門に酒手(飲み代)を強請られた。
本多唐之助は、播州宍粟郡山崎藩一万石、または三州挙母藩一万石ともいう。
山崎藩(宍粟藩)本多家は、忠勝系本多家の大和郡山藩主本多政勝の三男、本多忠英が延宝7年(1679年)に移され、その後明治維新まで続いた。享保ごろだと2代本多忠方(平七郎)または3代本多忠辰(八十郎)が該当する。
一方挙母藩本多家は本多忠政の三男本多忠義の次男である本多忠利(本多忠勝のひ孫)が天和元年(1681年)に陸奥国石川藩から移された。忠利、忠次、忠央の3代に渡る。忠央は寛延2年(1749年)に遠江相良に移封され寺社奉行となるが、宝暦8年(1758年)に郡上一揆で金森頼錦が改易されると縁戚を理由に連座して改易となった。享保のころとなるとこの本多忠央か父の忠次が該当する。父の忠次は幼名幸之助。
- 惣兵衛が「あいにく持ち合わせがない」と断ると、権房五左衛門が大脇差で切りかかってきた。
- 抜き打ちに一刀で権房五左衛門を倒したが、惣兵衛の刀の柄も中心ともども一寸ばかり切り落とされてしまった。
- 権房五左衛門の大脇差を持ち帰り、家中で試し切りが行われた時に、試し家に切り試しを依頼したところ、これには「千頭割(せんずわり)」という試し銘があり試すに及ばずと言われる。中心を抜いて確かめてみると、果たしてその通りの銘があった。
右刀には別にせんずわりといふ切銘あるべしと改めしに果して其銘あり
- どうやって手に入れたのかと問われたため次第を話すと、この刀は島原の乱の時に多数の敵を斬りとくに切れ味が良かったため「せんずわり」の添え銘をいれたものだという。
これは切支丹御征罰の時夥しく切りしに中にもすくれ切味よかりしを右の切銘を入れしとなり彼被殺し盗賊は権房五左衛門とて北国に名ある強盗の由、久田若年の節父の物語りなりと咄しぬ
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