伊勢光忠
※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。
伊勢光忠(いせみつただ)
脇差
備前長船光忠作
- 甲斐武田氏滅亡間近に、武田勝頼が小山田信茂に与えた脇差。
- 「甲乱記」の一本に登場する。
由来
- 号の由来は不明。
来歴
- 武田勝頼が常指しにしていた(朝夕腰ヲ不離指玉ヘル)というが、これ以前の来歴は不明。
- 天正10年(1582年)、織田信長による甲斐武田攻めの際の話。織田信忠率いる5万の兵に囲まれ、高遠城を守っていた仁科盛信(武田晴清)が3月2日に自害に追い込まれ、高遠城が陥落する。
武田三代軍記では、この時に仁科盛信が佩用していた太刀を「美濃藤四郎」であったとする。
- すると武田勝頼は小山田信茂の進言を入れ、新府城を出て信茂の居城である岩殿城への撤退を決める。その際に勝頼は、愛用していた本刀と馬を信茂に与えている。
去バ小山田ハ先今日罷歸。明日半途へ御迎ニ可参之由被仰合、必當家一門ノ身命ハ。其方ニ被相任ノ由御掟有。御盞ヲ被下。其時出羽守(信茂)。御盃ヲ頂戴申。三度傾ケル時。勝頼朝夕腰ヲ不離指玉ヘル。伊勢光忠ト申御腰物。幷御自愛アリシ。奥州黒ト云馬ニ。金覆輪ノ鞍ヲ置被下ケリ。小山田面目ヲ播シ退出ス。
(甲乱記)
- 翌3月3日、新府城を出た勝頼一行は信茂の岩殿城へ向かうが、途中で信茂の迎えを待つ間、3月9日頃に小山田信茂の裏切りが判明する。後方より滝川一益の兵に追われていた勝頼一行は、やむなく天目山を目指すことになる。
- 勝頼一行は少数ながらも奮戦するが、3月11日に勝頼・信勝父子、桂林院殿(北条氏康の娘で、北条夫人とも呼ばれる)は自害し、ここに甲斐武田氏は滅亡した。
- 小山田信茂は信長に嫡男を人質に差し出した上で投降するが、処刑された。
- 本刀伊勢光忠の行方は不明。
Amazon Prime Student6ヶ月間無料体験