二念仏
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二念仏兼元(にねんぶつ)
兼元の作
由来
- 前田利政が、慶長3年(1598年)に能登21万石を与えられて初めて入国した際の話。
- 供先を横切った不届き者の道心坊主を成敗したところ、斬られたものが二度「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えてから倒れたという。
孫四郎様(前田利政)能州に初而御入國之節、道之側に道心坊主罷在候處、作法宜しからずや、駕籠の脇御供の衆にあれ切れと被仰、ぬき打に仕候處、念佛二篇となへ二つに成申候。能きれ申に付、孫四郎様差料となり、二念仏と異名を申由
(松雲公御夜話)
来歴
前田利政
- 最初は、前田利家の二男である前田利政の所持。
前田直之
- 利政の長男、前田土佐守家2代目の前田直之(前田三左衛門)に伝わる。
- 前田直之は万治2年(1659年)から延宝2年(1674年)まで小松城代を務めたとされる。
萬治元年十月十二日利常小松城に薨ず。是を以て同年閏十二月徳川家綱は小松城を前田綱紀に附し、綱紀は翌二年正月前田三左衛門直之を城代とせり。延寶二年直之小松城に沒し、前田平太夫長成その職を繼ぎて同六年に至る。
前田綱紀
- 加賀4代藩主の前田綱紀は父光高が正保2年(1645年)に31歳で急死したため、わずか3歳で家督を継ぐことになった。綱紀の初入部は寛文元年(1661年)で、入国して小松城を訪れた際に、小松城代であった前田直之より献上された。
此御刀は、御入國砌小松邊御巡見のため被爲入候處、前田三左衛門御城に其節罷在、(略)三左衛門より獻上の旨なり。
(松雲公御夜話)寛文元年六月二十九日(略)この年綱紀齡十九にして初めて入部したるものにして、士民歡喜して之を迎へたりき。(略)既にして九月十八日綱紀は小松城に往けり。
- 以後前田家に伝わった。
- 同様の来歴を持つものに「前田藤四郎」がある。
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