権藤鎮教

権藤鎮教(ごんどうしずのり)  

薙刀
銘「平鎮教」
金象嵌「権藤」(名物 権藤鎮教)
福岡市博物館所蔵

  • 豊後国の刀工平鎮教の手による薙刀の名物
  • 鎮教は「豊後高田住平鎮教」、「平鎮教」などと銘切りしており、豊後高田刀の名手。

由来  

  • 「権堂」は武将名、「鎮教」は刀工名。
  • 「権藤」の由来には二説ある
    1. 黒田家家臣の権藤平左衛門行澄
    2. 高橋元種家臣の権藤平左衛門尉種盛
  • いずれにしろ薙刀は黒田家に伝来した。

黒田家家臣説  

  • 黒田家伝来の「名物三作」には、朝鮮出兵のおりに黒田如水めがけて襲いかかってきた虎があり、家臣の権藤平左衛門行澄がこの薙刀で仕留め如水を救ったので、「権藤鎮教」と号し、以後この薙刀は黒田家の家宝になったとある。
  • こちらの説では「権藤」とは黒田家家臣の権藤平左衛門行澄となっている。

高橋家家臣説  

  • また「御当家御重宝故実」によれば、高崎城主高橋元種の家臣、権藤平左衛門種盛の所持にちなむ。
  • 高橋元種(秋月種実の次男、高橋右近)は高橋鑑種の養子となり、天正15年(1587年)の秀吉の九州征伐で降伏、日向国縣(延岡)に5万3,000石を与えられた。
    元種の養父である高橋鑑種は、永禄5年(1562年)に毛利氏の誘いを受けて毛利に寝返っている。永禄10年には大友宗麟が道雪らを指揮官とした討伐軍を派遣。永禄12年(1569年)には尼子氏が出雲に攻め込んだため毛利氏の後ろ盾を失い降伏するが、高橋家の家督を剥奪され、高橋家の家督は高橋紹運が継ぐことになる。この高橋紹運の長子が立花宗茂であり、高橋元種と立花宗茂は義理の従兄弟関係となる。天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友氏が衰退すると、高橋鑑種は秋月氏より元種を養子に迎えた。
  • 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いのとき、高橋元種は、実兄の秋月種長とともに西軍について大垣城にあり、知行地である日向高崎城の属城宮崎城は留守居役の家臣権藤平左衛門が守っていた。
  • 一方、日向飫肥城主伊東祐兵(伊東祐隆、伊東氏12代当主、日向国飫肥藩初代藩主)は東軍についていた。
    この伊東祐兵の父義祐の娘(つまり祐兵の姉妹)が一族の伊東祐青に嫁いで産んだ子供が伊東祐益(伊東マンショ。祐兵の甥にあたる)である。
    伊東氏は天正5年(1577年)の島津氏侵攻により佐土原を追われ、大友宗麟を頼って豊後に逃れている。この時に年少の伊東マンショも逃げており、刀工の田中国広(後の堀川国広)もマンショをおぶって逃げたという。
  • 伊東祐兵は大坂にいたが、病気のため黒田如水に子息祐慶のことを頼み、如水は家臣宮川半左衛門を飫肥城に派遣することになる。
  • そして慶長5年9月29日夜、伊東祐慶の家臣で清武城主の稲津掃部助重政は、3000(清武勢2300、飫肥勢700)の兵で西軍方高橋元種の高崎城の属城である宮崎城を攻撃する。
  • 宮崎城代は豪勇で名が知られた高橋家老臣権藤平左衛門尉種盛であった。種盛は弟の種利、種公を始めとする士卒100名、雑兵450あまりで守備するが、一夜の内に宮崎城は落城、権藤平左衛門もこの薙刀で奮戦し18人を斬って捨てるが、力尽き自害した。
    平左衛門ではなく次男八右衛門種公であり、四本与右衛門に討ち取られたともいう。
  • この間、関ヶ原では9月15日にすでに決着がついており、高橋元種は15日の本戦で西軍が敗れると水野勝成の勧めで東軍に内応し、23日には大垣城守将の福原長堯を降伏させている。この功をもって、伊東氏により攻め落とされた宮崎城は慶長6年に高橋氏へ返還されている。
  • いっぽう伊東氏の東軍としての参加と貢献も認められ、徳川家康から所領を安堵されている。のちに、伊東方より落城の始末を如水に報告があり、その時にこの薙刀を贈ったとある。
    なお宮崎城を攻め落とした稲津掃部助重政は、宮崎城の高橋方への返還、さらに庇護を受けていた先代伊東祐兵の死により家中で孤立するようになる。慶長7年、藩主祐慶は詰問状を作って重政を罷免しようとするが、重政は聞き入れず、ついに切腹を命じられた。これを聞いた重政はわずかな手勢で清武城に籠城するが、飫肥藩兵に攻められ討死した(稲津の乱)。享年29。

    その後、高橋元種は大久保長安事件に絡み、慶長18年(1613年)に幕命により改易となり、身柄は当時陸奥棚倉藩主であった立花宗茂に預けられる。また攻防の舞台となった宮崎城は元和元年の一国一城令によって廃城となった。
  • つまり、この説では「権藤」は高橋元種の宮崎城代、権藤平左衛門種盛である。