三日月茶壺

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三日月茶壺(みかづきちゃつぼ)  

葉茶壺

  • 「松嶋」と並び、天下無双と讃えられた茶壺。
  • 信長が所持し、本能寺で焼失した。

概要  

  此茶壺、御茶七斤ノ上入
三ヶ月、
 此茶壺、天下無双ノ名物也、大ナル瘤七ツ在、前腰袋付タルヨウナル横ヘ長贅在、前ヘ少傾面白トテ、三日月名付タリ(略)
此御壺、昔興福寺之西福院所持也、其後日向屋道徳所持、其後下京袋屋所持、其後三好実休所持、一乱河内高屋ニテ六ツ破申候、其後堺宗易ニテツキ立、三好老衆三千貫太子屋置候、太子屋ヨリ信長へ上申候、ワレ候名物威光猶益、御茶候、代五千貫、一万貫トモリモ事也、御壺ノ様子口伝ニ在リ、但シ総見院御代入失申候。

来歴  

足利義政  

  • 足利義政に愛玩され、名物東山御物)となった。

    昔、三ヶ月松嶋、東山殿御物

    東山御秘蔵第一

  • 足利義政の頃には、「松嶋」、「三日月」、「象潟」が天下三名壺とされた。
    前二者は本能寺で焼失、象潟はのち堺の商人鹽屋宗悅の所持。

興福寺  

  • 興福寺の西福院弘海所蔵であったという。

    同(和州)興福寺ノ西福院、三ヶ月所持、

    西福院弘海は茶人。奈良興福寺西福院の住職で、村田珠光に茶を学んだ。足利義政の死後、三日月茶壺を所有した。

日向屋→袋屋→三好実休  

  • その後、日向屋道徳の所持となり、さらに下京の袋屋五郎左を経て、三好実休の所持となる。

    豊州三好実休ハ、名物ノ小茄子、三日月ヲ初テ、其外五十程名物所持ス
    (山上宗二記)

    三日月 下京袋屋五郎左 今三好実休
    (仙茶集)

  • 天文23年(1554年)成立の「茶具備討集」、永禄7年(1564年)成立の「分類草人木」にも松嶋と並んで三ヶ月が名物として登場する。

    名壺雖多無如松島三ヶ月之彩色水色厚味垽強異氣鼻香也

    葉茶壺の名物、松島、三日月、きさかた(象潟

  • 三好実休は、弘治2年(1556年)11月28日~12月9日に阿波に津田宗達を招き、茶会で三日月を使用したことが茶会記により記される。

    弘治二
       辰十一月廿一日罷立 同廿八日 阿州へ着申候
       同日ニ豊州へ御禮参 茶屋ニて暮まで御物語承候
     
      同十二月九日朝 御會 宗達一人
    一、ゐるり じやうはり くさり
    一、床 三日月葉茶壺 おゝい あさぎ小もん金蘭
       茶碗ニ茶タツ   とりを むらさき 右笹茶すへて

  • のち河内高屋城の戦いで、6つに割れてしまう。
    高屋城は、城主が頻繁に入れ替わっており、戦国期には畠山氏が抑えていた。畠山高政は三好長慶と争って負けており、長慶は永禄3年(1560年)に弟の三好実休を高屋城に入れている。しかし翌永禄4年(1561年)には奪回されてしまい、さらに翌永禄5年(1562年)3月には実休が久米田の戦いで高政に敗死させられる。その後、畠山高政が同年5月の教興寺の戦いで敗れると、長慶の甥の三好義継が城主となっている。三好義継は三好三人衆と仲違いして高屋尉を離れ、永禄10年(1567年)に三好義継と松永弾正が東大寺での戦いで三人衆に勝利すると、翌永禄11年(1568年)に三好康長が入城している。しかし同年9月に信長が芥川城を落城させると三好康長は阿波へと落ち延びていった。
  • 三好実休は、永禄5年(1562年)3月5日久米田の戦いで戦死した。

太子屋  

  • 千利休が割れたのを継ぎ、実休の家臣(三好老衆)が三千貫の質として堺の商人太子屋へと預けた。
    正親町天皇から与えられた居士号である「利休」号を用いるのは、天正13年(1585年)の禁中茶会から。

信長  

  • 三好康長(笑岩入道)が織田信長に降伏したあと、天正3年(1575年)10月21日にこの三日月茶壺が進上されたことが、信長公記などに記される。直接太子屋から進上されたともいう。

    十月廿一日 大坂門跡之儀 三好笑岩 友閑 兩人御使申御赦免也
    小玉檻 枯木 花之繪 三軸進上候て年寄共罷参 平井 八木 今井 御禮在之
    天下無隠 三日月の葉茶壺三好笑岩進上に而候し也

    このことから、質入れされていた三日月は、これより前に三好康長により買い戻されていたと思われる。
     ただし、これより2年前の天正元年(1573年)11月20日に妙覚寺で松井友閑、今井宗久、山上宗二を招いて茶会を催しており、その席で「三日月」を使用したことが茶会記(宗久日記抜書)に載っているため、これより以前に信長の手に渡っていたことは確実とされる。

  • この時、五千貫であったとも、あるいは一万貫であったともいう。
  • 信長は、入手直後の10月28日に茶会を開き、さっそくこの「三日月」を使用している。

    十月廿八日 京堺之數寄仕候者十七人被召寄 妙光寺にて御茶被下候
    御座敷の飾 一御床に晩鐘 三日月の御壺 一違棚に置物七臺に 白天目内赤の盆につくもかみ 一下にハ合子しめきり被置おとごぜの御釜 一松島の御壺の御茶 一茶道者 宗易 各生前思出忝 題目也 已上

  • 信長の頃、「松嶋」、「三日月」、「松花」が天下の三名壺とされていた。
    このうち前二者は本能寺の変で焼失してしまったため、これより後は「松花」、「四十石」、「金花」が三名壺と呼ばれるようになった。
  • 葉茶壺「三日月」は、本能寺の変で焼失した。
  • なお「仙茶集」では、安土城に残されていたと記す。

    三日月、松島、岸ノ絵、万里江山、きだうの墨跡、大道具に依て安土城に残置候、重而拝見可被仰付候