薩摩正宗


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 薩摩正宗(さつままさむね)


無銘
二尺一寸三分、身幅一寸三分、重ね三分

  • 関ヶ原の戦い後、宇喜多秀家の所持していた「鳥飼来国次」をめぐる逸話がある。
  • しかしこの逸話には異説がある。それに登場するのが本刀である。
  • それによると、家康に申し出た宇喜多秀家の家臣は黒田勘十郎であるとする。

 矢野五右衛門

  • 関ヶ原で敗戦濃厚になると、秀家は小早川隊への突撃を命ずるが明石全登の説得を受け、伊吹山方面へと落ち延びた。ここで落ち武者狩りをしていた美濃揖斐町白樫の郷士矢野五右衛門重昌(五郎右衛門)に見つかってしまう。
  • 秀家は死を覚悟しており名乗りもせず助命を申し出ることもない。秀家の家来と問答した矢野は、秀家の武士としての潔い態度に感服し、匿うことを申し出る。

    秀家卿家臣進藤三右衛門、黒田勘十郎只二人を連て旗本を拔出て膽吹山へ落行れける夫れより道も無き方へ山深く迷ひ行其夜は美濃國粕川の谷の岩崖に勘十郎か膝を枕にして暁迄まどろみ明日九月十六日白樫村五郎右衛門と云ふ者落人を討んと槍を提げ出て行逢へば則突て懸る秀家卿主従三人とても遁れぬ所と身構へあるを五郎右衛門つくゞと見て槍を横へ平伏して申けるは唯人とは見せさせ給はず痛はしくこそ何方へなりとも御供可仕名乗らせられよとあれば秀家卿は包も敢えす我名を名乗り今は容易に國に歸る事も成難し何方へなりとも山深き方に忍ぶ外なしとあれば五郎右衛門承り某が家見苦くは候得共人遠なる山中に候間一先御忍び候へ迚主従三人を誘ひ三里許の山中を分行、秀家卿をは五郎右衛門か下部九藏と云ふ者かき負て白樫村へ急きけるに其間にて郷人餘多追掛けけるを五郎右衛門様々に斷ちければ左らは腰物を給はれと乞ければ主人の爲なれば今は力なく三右衛門も勘十郎も腰物を拔きて郷人に得させて漸々白樫村へ行着、五郎右衛門方に隠れ住て數日を經ける

  • 結局40日あまり白樫で匿われていたが、大坂に残していた妻の豪姫が前田家に引き取られることを聞き及ぶと、矢野は秀家を病人に偽装してなんとか大坂へと護送し、秀家は豪姫と邂逅を果たした。
  • 秀家は矢野の厚恩に報いるため、秀吉からの朱印状、黄金30枚、小袖二重を与え、他日再起した時には必ず訪ねて来るよういったという。この矢野氏はその後も白樫の郷士として続いている。

 黒田勘十郎

  • 宇喜多秀家の供廻りであった黒田勘十郎は薩摩まで秀家と同行したという。
  • その後、黒田勘十郎は徳川家の追求から目を逸らすためにこの刀を所持した上で出頭し、宇喜多秀家殿は自決なされたと主張し、その証拠がこの刀であるとして献上する。
  • 後に秀家は生存していたことを島津家が認めたため秀家の自決は嘘であることが判明したが、家康は黒田の忠義を褒め、不問とするとともに秀家の刀を黒田に下賜した。

 来歴

  • のちに黒田は薩摩の島津家に召し抱えられ、刀を島津家に献上する。
  • 黒田勘十郎の子がこれを拝領するが、数代のちの子孫がこれを商人に売り渡してしまう。
  • 明治23年(1890年)に、時の鹿児島県知事渡辺千秋(諏訪藩士、貴族院議員、宮内大臣)が買い上げた上で「薩摩正宗」と命名し、以上の由来を箱書きした。
  • 棟には切り込みの痕があった。

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