波切丸


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 波切丸(なみきりまる)

  • 「浪切丸」とも
  • 「波切丸」は歌舞伎「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)」に登場する架空の刀。
    4世鶴屋南北50歳のときの作品で、近松半二作の浄瑠璃「天竺徳兵衛郷鏡(さとのすがたみ)」の書き換え。初演は文化元年(1804年)で、初世尾上松助が江戸河原崎座で演じた。松助の子、3世尾上菊五郎が継承し、その後尾上家の家の狂言となる。

 由来

  • 波をも切るとされるために名付けられた。

 天竺徳兵衛韓噺

  • 歌舞伎「天竺徳兵衛韓噺」のあらすじ
    • 作中において本刀は、もと足利将軍家に伝わった宝刀であったとされる。
    • 足利義政の時代、豊後佐々木家の若殿であった桂之助は、「波切丸」を紛失してしまい、吉岡宗観(よしおかそうかん)の屋鋪に押し込められてしまう。
  • そこに播州高砂の船頭天竺徳兵衛が連れて来られ、「異国話」を面白おかしく聞かせる。宗観は実は朝鮮国(大明とも)に仕えた木曾官(もくそかん)であり、祖国へと攻め入った真柴久吉(羽柴秀吉)への恨みを果たすために密かに日本へと渡航して復讐の機会を狙っていた。
  • 吉岡宗観は、徳兵衛に対して実は息子の大日丸(だいにちまる)であると言い聞かせ、日本国転覆の野望を受け継がせるために蝦蟇の妖術を伝授する。
  • その後天竺徳兵衛は、越後の座頭・徳市(とくいち)に変装し梅津掃部邸に現れる。そこで南蛮渡来の楽器木琴を弾いて歌を披露するが、将軍の上使細川政元に正体を見破られ、徳兵衛は庭の泉水に飛び込んで姿をくらましてしまう。
  • 梅津掃部の奥方葛城(かつらぎ)()の年・巳の月・巳の日・巳の刻生まれであり、この葛城の生き血を浴びたために徳兵衛は蝦蟇の妖術が使えなくなり、野望は夢と果ててしまう。
    蛇(巳)は蛙の天敵。
  • こうして「波切丸」を取り戻した佐々木家は、めでたく再興されることとなる。


 天竺徳兵衛

  • この作品に登場する天竺徳兵衛は実在の人物で、慶長17年(1612年)に播州高砂の塩問屋(屋号 赤穂屋)に生まれたとされる。幼名は徳蔵。父の名もまた徳兵衛であったと推測される。
  • 寛永3年(1626年)10月16日、15歳のときに京都の角倉家(角倉玄之こと角倉素庵。与市)の朱印船貿易に関わり、船頭・前橋清兵衛の書役(書記)となって長崎を出港。
  • 翌寛永4年(1627年)3月にはヤン・ヨーステンとともにベトナム、シャム(暹羅国。現在のタイ・アユタヤ王朝)などに渡航した。ここから「天竺徳兵衛」と呼ばれるようになった。

    天竺へ渡り候寛永三年十月十六日長崎福田出船仕、翌年三月三日に中天竺マカダ国流佐川ハンテピヤまで参り申候、中一年逗留仕候て、三年目辰三月三日に流佐川を出船いたし其年の八月十一日長崎福田へ帰着仕候。

    当時「天竺」とはインドのみを指してはいない。例えば同じシャム国の日本人街の頭領となったという山田長政が、静岡浅間神社に納めたという自筆の絵馬(山田長政奉納戦艦図絵馬)には「今天竺暹羅国住居」と書かれている。

    ヤン・ヨーステンは耶楊子(やようす)とも。オランダ船リーフデ号に乗り込み航海長であるイングランド人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに1600年豊後に漂着する。徳川家康に信任され、江戸城の内堀内に邸を貰い日本人女性と結婚した。屋敷のあった場所は現在の八重洲のあたりで、この「八重洲(やえす)」の地名は彼の名前に由来する。

  • いっぽう歌舞伎の「天竺徳兵衛」は、蝦蟇の妖術を用いて日本国の転覆を狙う謀反人となって登場する。

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