榊原正宗
榊原正宗(さかきばらまさむね)
刀
金象嵌 榊原式部太輔上之
大磨上
二尺三寸一分
榊原正宗
- 表裏に棒樋をかき通す。なかご大磨上。
- 目釘孔1個
- 打刀拵え、鍔は赤胴七子地の十文字透かし、鞘は青塗り
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由来
来歴
榊原康政
- 元は榊原康政所持。この時に磨上を行い金象嵌を入れている。
榊原康政は天正14年(1586年)11月19日に従五位下・式部大輔に叙任された。慶長11年(1606年)5月に館林で病死している。
福島正則
- のち福島正則が入手。
島津宗家
- 関ヶ原の役後、薩摩の島津家久(忠恒、薩摩藩初代)が初めて上洛する途中で、兵庫において福島正則に会し、互いに佩刀を交換した。その時に島津家に移る。※慶長7年(1602年)と思われる。
(慶長7年10月14日)
福島正則、封地安藝廣島に歸らんとして、薩摩鹿兒島の島津忠恆と攝津兵庫に會し、共に大坂に至る、尚々昨日両度、従福島様御振舞御座候、拙者も御座候被召出候、誠ニ維新様御影難盡候、此等ノ様子も御次之時ハ可然様御取成時仰候
十月十五日 旅庵判
伊平左様
人々御中
「旅庵」は新納旅庵だと思われる。諱は長住、号は休閑斎。新納康久の三男として生まれるが幼少より出家し、遊行上人に従い諸国を巡歴、後に肥後国八代荘厳寺の住職となり、旅庵と号す。兄·新納久饒が幾度となく説得したため島津義弘の家臣となる。関ヶ原では義弘に従い出陣。伏見城に籠る鳥居元忠と入城を交渉するも拒まれる。関ヶ原からの退却途中で義弘一行とはぐれ鞍馬に潜伏するも見つかり、東軍の捕虜となる。家康の尋問を受け、島津義久・忠恒(後の家久)に上洛を促すよう命じられ解放される。家康との交渉にあたり島津家の本領安堵のため奔走し、講和が成立した直後、慶長7年(1602年)大坂の地で病死した。(慶長7年12月28日)
薩摩鹿兒島の島津忠恆、安藝廣島の福島正則と共に山城伏見に至る、是日、徳川家康に謁して、本領安堵の恩を謝す、尋で、薩摩に遁れし、前備前岡山城主宇喜多秀家の助命を家康に請ふ、
この後、島津家久は年を越し、翌年1月15日に鹿児島へ帰るべく京都を発っている。このときまでに授受があったのではないかと思われる。
都城島津家
- 島津家久(忠恒)から四男である日州都城の北郷久直(都城島津氏)が拝領し、都城島津家の重代となる。北郷家を継いだ寛永11年(1634年)頃のことではないかと思われる。
もとは北郷 氏。北郷久直は島津家久の四男として生まれ、のち寛永11年(1634年)北郷忠能の姉婿となることで鹿児島藩一の大領を持つ分家である北郷氏を継いだ。しかし寛永18年(1641年)に25歳で亡くなり、宗家との対立が再燃した(島津忠恒は寛永15年に亡くなっており、2代光久の頃)。
その後北郷家は久直夫人(忠能の娘)が16年間納めた。この久直夫人の死後に、北郷久直の娘である千代松の婿として継いだのが島津光久の次男・北郷久定である。しかし久定も19歳で病死したため、久定の弟・忠長(光久三男)が兄嫁であった千代松を娶り相続、この時宗家の命により家名を「北郷」から「島津」(都城島津家)へと改めた。※ただし忠長も26歳で病死し、光久の八男・島津久理が跡を継いだ。
4代藩主島津吉貴の時代、正徳2(1712)年11月に島津家の家格整備が行われ、その際に島津筑後家(都城島津家)は、島津左衛門家(日置島津家)、島津周防家(花岡島津家)とならび「大身分」(一門四家に次ぎ、国老よりも上)に位置付けられた。
- 明治維新のころ、島津久寛が東京で打刀拵に新調し、差料とした。
島津久寛は都城島津家26代当主。父は25代島津久静、母は島津久光の娘・定。早くに父を失い家督相続。戊辰戦争でも活躍し、都城島津家はこの功によりのち明治24年(1891年)に男爵を授けられている。西南戦争では中立を保ち島津宗家の久光や忠義らとともに桜島へ避難した。明治17年(1884年)、都城にで病死、26歳。従兄弟である北郷久家(島津久家、1877-1922)が跡を継いだ。
26代 島津久寛(しまづひさひろ) 1859~1884 - 宮崎県都城市ホームページ
- 明治10年(1877年)9月道具類が焼けたが本刀を含む数本が残ったという。
御文書御腰物等焼亡ニテ相成候得共、御重代御刀四五本ノ間ハ其儘忍置候場所ヘ無難ニ有之候間御届出申出候
一、榊原正宗 旧御拵新御品共惣テ残リアリ
一、御重代元重 御拵共同断
一、助広 御拵ナシ、白木鞘入是レハ本領御安堵ノ節御拝領、但小ハ焼シナラン
一、御重代守家 御拵トモ残ル
右ノ外三拾本位ハ御残リアリ
- 明治21年(1888年)8月お手入れ。
八月十五日
一、正宗御刀 一腰 白木鞘一
但赤金一重鎺
右研方ノ為冨松便ヨリ相届キ候事
八月十六日
一、正宗御刀
右梅北善次郎方ェ研方御頼入、尤日下ヶノ筋ニテ候、今日幸良日ニ付研初候事
九月十二日
一、過日来頭刻休ミ相成居候正宗御腰物今日ヨリ尚又梅北方ヘ為持候事
同十六日
一、豫テ御頼相成居候榊原御腰物研方成就ニテ夕景梅北善次郎持参候ニ付正中一通被成下候事
同十六日
一、昨日成就相成候御腰物並元重御太刀外ニ御大小且金御時計モ成就相成居候間具次郎様御立会ノ上御金棚ヘ御格護相成候事
- 明治23年(1890年)
六月七日
一、今日具次郎様御立会御金棚開キ方ニテ榊原及元重ノ両御宝刀ヘ油付イタシ候事
- 明治26年(1893年)錆落とし
一、正宗御刀錆落トシテ松永敦門昼ヨリ一刻出席
- 明治34年(1901年)12月28日
一、榊原正宗、但装具共畠田守家此般山下兼根携帯上京ノ筈ニ付荷作ニ及候事
山下兼根は䕃山伊兵衞の次男。安政2年(1855年)山下善左衞門の養子となる。西南戦争では満木清雄の下で給典係として従軍。上木場で負傷した後は都城に帰り降伏。のち官界に入った。株式會社日州銀行、都城電氣株式會社各監査役などを務めた。
- 明治35年(1902年)
五月十三日
御腰物取調及上ノ箱大小御刀油拭ノ為渡辺与右ヱ門昼迄出邸、然処真写図ニ有之無銘御刀モ相分候是ハ鑑定来國光ト鞘ニ記載有之候卽チ守家榊原助廣ト四本ノ一ニテ候事
- 明治35年(1902年)遊就館に保管依頼か。
同(9)月八日
一、久政君御紙面達ス、(略)正宗守家ノ御宝刀東京遊就館へ保護預ヶ相成候度如何被仰越候事
- 明治40年(1907年)6月装具についての記載。
六月廿ニ日
一、東京北郷資知殿ヨリ書面相達ス左ノ件々被申越候事
一、財部氏御含ミニテ御帰郷相成候御腰物一件正宗ノ御装具ハ須田氏預リ被居候ニ付相請取候旨云々被申越候事
- 大正9年(1920年)の東宮(後の昭和天皇)行啓を控えて、台覧に備えての準備などが行われている。
二月十三日曇
一東京邸へ行啓御内定ニ付準備の通知と共ニ台覧ニ供すへき品ハ仙厳公御鎧守家並榊原正宗の両刀とし之ニ説明書を附し尚御当家由来を附記し度、又献上品ハ椎茸猪山林の写真等可然哉何分御決定ヒ為在度旨をも申送る
「仙厳公」は、8代北郷忠相のことだと思われる。左衛門尉、讃岐守。都城中興の祖。戒名は竜峯寺殿仙厳浄水大禅定門(竜峰寺仙岩浄永大禅定門)。伊東氏に奪われた領土回復を果たし、新納氏の梅北城、松山城、末吉城などの諸城を攻略。さらに北原氏から山田城・志和池城を奪取した北郷氏は、庄内(現在の都城市)一円を知行する最盛期を迎えた。永禄2年(1559年)11月17日73歳で卒。
8代 北郷忠相(ほんごうただすけ) 1487~1559 - 宮崎県都城市ホームページ ※鎧の写真もある二月廿九日曇
一山下家従帰國便より行啓の折台覧ニ可供正宗守家元重助廣等の刀四本送り来る三月廿七日雨后より霽
殿下御予定の通り正午五分臨時御召列車ニて都停車場へ御機嫌克御着ヒ為遊財部大将ハ公の御代理の資格を以てプラットホームへ奉迎龍岡家令も同様奉迎申上候(略)
御昼食後単独拝謁立列拝謁を賜ひ聯隊長の聯隊歴史言上の後龍岡家令へ御当家より御座敷へ飾りし南朝の綸旨守家元重榊原正宗並ニ備前助廣の刀四本相久公の御鎧 と今般東京より御送りの鎧弐領並ニ朝鮮征討同虎狩図の屏風弐雙と御当家の畧御歴史の説明を特ニヒ仰付御座ニ罷出恐れ多くも咫尺の間ニ於て凡四分間殿下ニ御説明申上の栄を蒙りたり宮廷録事
東宮行啓
皇太子殿下ハ本月二十六日午前八時御上陸鹿兒島縣廳竝ニ公爵島津忠重別邸ヘ行啓城山御登臨第七高等學校造士館へ行啓鹿兒島縣立物産陳列場及照國神社へ御立寄歩兵第三十六旅團司令部及歩兵第四十五聯隊、鹿兒島高等農林學校へ行啓午後五時二十五分御歸艦アラセラレタリ
東宮御安著
皇太子殿下ハ一昨二十七日午前六時四十五分鹿兒島御上陸同六時五十五分鹿兒島驛御發車同九時五十五分高原驛御著車狭野神社へ御立寄同十一時二十五分高原驛御發車正午都城驛御著クリマ小松原公園へ御立寄ノ上歩兵第六十四聯隊へ行啓午後三時五分都城驛御發車同四時二十五分宮崎驛御著車同四時四十分御泊所へ御安著アラセラレタリこの頃の都城島津家の当主は27代島津久家。明治17年(1884年)4月10日に家督相続。明治24年(1891年)に父・久寛の功により男爵に列せられた。陸軍軍人として明治34年(1901年)陸軍歩兵少尉。フランスに留学し、日露戦争にも従軍し正4位勲4等歩兵少佐。大正元年(1912年)に子孫が永遠に守るべきこととして都城島津家の「家範」を定めている。のち「都洲島津奨学金」を創設。大正11年(1922年)1月19日近衛師団奉職中、病気で東京にて死去。享年46歳。
27代 島津久家(しまづひさいえ) 1877~1922 - 宮崎県都城市ホームページ
財部大将は財部彪だと思われる。都城出身の軍人・政治家で、妻は山本権兵衛の娘・いね。日露戦争で大本営作戦参謀。海軍次官、大正8年(1919年)に海軍大将。加藤友三郎内閣で海軍大臣となり、その後、第2次山本内閣、加藤高明内閣、第1次若槻内閣、濱口内閣の4内閣において海相を務める。昭和5年(1930年)、ロンドン海軍軍縮会議において若槻禮次郎らとともに全権となり、同条約に調印した。海軍軍令部はこれに不満で統帥権干犯問題により海相を辞任した。昭和7年(1932年)年齢満限により予備役。昭和24年(1949年)肝臓がんで死去。81歳。
- 太平洋戦争で焼失。
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