剣切貞宗
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剣切貞宗(けんきりさだむね)
脇指
銘 貞宗
長 壱尺八寸(54.5cm)
立花家史料館所蔵
由来
- 由来は不明。
御腰物由来覚には「剣切之由来吟味之上書載之事」と書かれている。
来歴
- 御腰物由来覚
右者宗茂公御差、御代々御譲ニ而、御坐候処、貞享四年卯四月廿九日、於二ノ丸、原尻老之丞元
腹 被 仰出候節被下候
其後、元録 十一年、御上屋鋪御類焼有之候故、亦々英山様(3代立花鑑虎)江進上之。寛延元年迄御差ニ成居申候
当時御休メ成居候。御拵等別帳に委敷記之。剣切之由来吟味之上書載之事
- 代々伝えていたが、3代立花鑑虎のとき貞享4年(1687年)4月29日に原尻老之丞が元服した際に下賜したという。
原尻氏は、戦国期の原尻鎮清が武功を上げ、のち子孫は柳河藩士として仕え、立花性を賜姓される者もいた。
- 元禄11年(1698年)に再び献上されている。すでに2年前に隠居していたが、3代鑑虎へと献上されたと伝える。
立花鑑虎は2代藩主・立花忠茂の四男。母は伊達忠宗の娘で、将軍徳川秀忠の養女として嫁いできた法雲院。
寛文4年(1664年)父の隠居により家督を継ぎ、元禄9年(1696年)隠居して家督を次男の鑑任に譲り、剃髪して英山と号す。元禄15年(1702年)58歳で死去。
- その後、寛延元年(1748年)まで指したという。
- しかし3代鑑虎は元禄15年(1702年)に死んでおり、その後、4代立花鑑任、5代立花貞俶、6代立花貞則、7代立花鑑通まで代々指したということかも知れないが、詳細は不明。
7代立花鑑通は延享3年(1746年)に兄の死により家督を継ぐ、寛政8年(1797年)閏7月に家督を五男の鑑寿に譲り隠居した。
- その後も柳川藩主立花家に伝来し、現在は立花家史料館所蔵
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