三善長道(刀工)

三善長道(みよしながみち)  

江戸時代の陸奥国会津藩の刀工
新刀上々作にして最上大業物

  • 初代三善長道は、江戸時代の陸奥国会津藩の刀工
  • 「会津虎徹」などと称される名工。

生涯  

  • 寛永10年、奥州会津藩工の三善政長の子として会津に生まれる。。
  • 俗名は三善藤四郎。
  • 16歳で父に死別したため、父の門人、長俊に師事する。禄ははじめ三人扶持と※十二石。のち二人扶持と米三石の加増が会った。
  • はじめは「道長」と茎に銘を切り三好道長と称していたが、26歳の時万治元年8月13日に陸奥大掾を受領した際、三善長道に改める。
    これは手続きの際口宣案に名前が誤記されてしまっていたことから以降改名したとの説もあるが、御堂関白藤原道長と同字であったため憚りありという朝廷側の判断によったものである。
  • 延宝年中に江戸に駐槌し、自作刀を山野久英に試させ、二つ胴、三ツ胴の好成績を示し、最上大業物の位列を得た。
  • その腕により、「会津正宗」、「会津虎徹」と呼ばれた。
  • 貞享2年に53歳で没。

著名作  

銘「陸奥大掾三善長道/金象嵌 延宝三年八月十一日 参ツ胴裁断 山野勘十郎久英(花押)」刃長二尺三寸六分。会津藩主代々の枕刀。号 面影
金象嵌銘「延宝三年八月十八日/金象嵌銘 山野勘十郎久英 一ノ胴片手ニ而切落」。会津藩家老萱野権兵衛の所用
銘「陸奥大掾三善長道/延宝丁巳八月」長2尺2寸8分。元治元年6月5日に起きた池田屋の変ののちに、新撰組局長の近藤勇が会津藩主松平容保から拝領したもの。明治元年(1868年)4月に越谷の政府軍本営に出頭したときにも身につけており、谷干城により没収される。のち土佐藩主家に献上され、戦後は靖国神社遊就館で保存された。


系譜  

  • なお、長道の名は明治に至るまで襲名され続けている。
  • 初代を除けば6代が名手とされ、「棟梁長道」と呼ばれる。
  • 津田越前守助広門人との説もある。作柄としては江戸の長曽祢虎徹に似ており、反り浅く地鉄小板目に柾まじり、刃文は砂流しまじりの互の目乱れなどを焼く。
予州松山三善長国──三善政長(三善市九衛門後藤四郎)──初代三善長道
  • 諸説あり

三善一派  

  • 二代以後、代々藩工として活躍し、明治の九代長道まで続いた。

三善長国  

  • 文禄、寛永ごろ。
  • 「奥州会津住長国」
  • 天正5年広島の生まれ。
  • 播磨守輝広の甥にあたることから刀工となった。

政長初代  

  • 本名三善利右衛門のち藤四郎、予州松山三善長国の子。
  • 京に上り埋忠明寿の門人となり彫を習う。寛永四年(1627年)抱え主加藤正之の会津移付に伴い、父長国とともに会津に移住。
  • 初銘「正長」
  • 「奥州会津住政長」
  • 寛永~岩代
  • 子に陸奥大掾三善長道(初代)がいる。

政長二代:陸奥大掾  

  • 「奥州会津住藤原政長」

政長三代  

  • 本名三善市九衛門のち藤四郎、二代政長の子。
  • 正徳~岩代

初代和泉大掾国輝  

  • 三善長国の子或いは門人。
  • 元祖長国より七代目と言う、五代国輝は「元祖長国ヨリ七代 和泉大掾藤原国輝」「元祖長国七代孫和泉大掾藤原国輝」等とも切り、三善藤四朗と言う。

関連項目