酒井忠因
酒井抱一(さかいほういつ)
江戸後期の絵師・俳人・僧侶
俳号 杜陵(杜綾、屠龍)
狂名 尻焼猿人
概要
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酒井抱一とは、姫路藩2代藩主・酒井忠以の弟・酒井忠因 (ただなお)のこと。
【姫路藩】 酒井忠恭1┬忠得 ├忠宜 ├忠温 ├忠啓【旗本】 ├忠交【姫路新田藩】 └忠仰─┬酒井忠以2──┬酒井忠道3 └酒井忠因 └酒井忠実4─┬酒井忠学5 (酒井抱一) ├酒井忠讜─酒井忠宝6 └三宅康直┬酒井忠顕7 └酒井忠敬
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琳派の画家であり、狂歌でも名を残した。
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狂名は尻焼猿人(しりやけのさるんど)。俳号は、白鳧・濤花、後に杜陵(杜綾)。
なお「濤花」は先輩より譲られたもので、のちに兄・酒井忠以の三男・酒井忠実(姫路藩4代)の正室・隆姫(遠江横須賀藩4代藩主西尾忠移の娘)に譲っている。 -
以下は「抱一」で通す。※ただし「抱一」は出家後の号
生涯
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宝暦11年(1761年)に姫路藩の小川町別邸にて誕生。父は姫路藩世嗣・酒井忠仰(その父=祖父は前橋藩9代/姫路藩初代・酒井忠恭)、母は松平乗祐の次女・里姫(玄桃院)。兄に姫路藩二代となる酒井忠以(ただざね)。※参考)酒井雅楽頭家の江戸藩邸
宝暦十一年巳七月朔日小川町ニテ御誕生、御七夜之節善次ト御名ヲ被進
宝暦六年十二月ニ日小川町水野源右衛門邸地千三百廿坪巢鴨邸中ニテ千坪相對替願ノ如ク相濟因テ此地ヲ拝領アリテ忠望(※酒井忠仰の前名)君ノ邸地トナル
同七年七月二日忠望君小川町ノ邸ヘ移徙ナル【大給松平家】 松平乗邑10─┬乗祐11─┬乗孝 │ ├乗峰 │ ├乗完12──乗寛13 │ └里姫 │ ├───┬酒井忠以 │ 酒井忠仰 └酒井忠因(酒井抱一) │ 【酒井雅楽頭家】 │ └乗薀─┰乗衡(林述斎8)─┬林檉宇9 ┃ ├鳥居耀蔵 林錦峯7┛ └林復斎 【林大学頭家】
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実父である酒井忠仰は明和4年(1767年)8月20日抱一7歳のときに蠣殻町の中屋敷にて死去、享年33。明和6年(1769年)8月に外祖父・松平乗祐死去。明和8年(1771年)3月5日11歳のときに生母も死去。※後に兄も36歳で死んでいる。
抱一は巳年生まれであるため弁財天を信仰しており、度々江の島詣を行っており、画題にも弁財天を取り上げている。 -
実兄である酒井忠以(さかい ただざね)は、叔父たちや実父・忠仰が亡くなったため祖父である祖父・忠恭の養嗣子となり、のち18歳で姫路藩の家督を継ぎ播磨姫路藩第2代藩主となった。酒井抱一が江戸琳派で高名だが、忠以自身も絵画、茶道、能に非凡な才能を示し、かつ日光東照宮修復を命じられた縁がきっかけで出雲松江藩主の松平不昧(松平治郷)と親交を深めた。 実兄の酒井忠以も茶人・俳人として知られ、当時大手門前の酒井家藩邸は文化サロンのようになっていたという。
兄・酒井忠以は茶人大名”酒井宗雅”として高名で、茶会記「逾好日記」を残している他、日々の出来事などを記した「玄武日記」も22歳のことから続けていた筆まめな人物でもあった。
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酒井抱一の幼名は善次、通称は栄八。諱は忠因。※実兄・酒井忠以の「玄武日記」では「榮八」で通されている。
明和四年亥十一月十五日御實名忠因ト被進林大學頭様御考被成候ニ付前次様ヨリ御太刀馬代御送被進之
部屋住み時代
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明和4年(1767年)11月15日に諱を「忠因」と名付けられる。
一、明和四年亥十一月十五日御實名忠因ト被進林大學頭
樣御考被成候ニ付前次樣ヨリ御太刀馬代御送被進 -
11歳のとき鈴木清兵衛について起倒流柔道を学ぶ。13歳の時山本嘉兵衛について無辺(無邊)流槍術を学ぶ。14歳の時中根新兵衛について弓術を学ぶ。
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明和7年(1770年)6月23日、栄八と改名。
一、明和七年寅六月廿三日榮八ト御改名
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抱一12歳の時、安永元年(1772年)に祖父である酒井忠恭も没したため、明和4年閏9月20日に養嗣子となっていた実兄の酒井忠以が18歳で嫡孫承祖して二代藩主となる。兄が国元に帰国する際には抱一(忠因)を仮養子として万が一に備えた。
元々父の酒井忠仰は庶子で大身旗本とされていたが、嫡子とした忠得が早世し、ついで忠宜も早世したため、忠仰を戻し嫡子としていた。この忠仰も家督相続前の明和4年(1767年)に早世した。 -
安永2年(1773年)13歳の時、家督相続していた兄・酒井忠以の参勤について姫路へ。9月11日江戸発、28日姫路着。安永3年(1774年)5月15日姫路発、6月5日江戸着。
この時、従者のふりをするため「酒井旗之助」と名乗っていたという。※これは安永2年(1773年)時ではなく天明元年(1781年)ときだともする。「二十一歲、乃ち酒井旗之助と假稱し從者の格を以て兄に属從せり」 -
抱一(忠因)は安永6年(1777年)に17歳で元服して1000石を与えられる。兄の仮養子となる。
六月廿二日 かり養子願書出来居間へ次上下にて着座此度供右筆木村領右衛門封之事文言左之通
私儀御暇被仰出近日在所へ罷越候未男子無御座候
ニ付私弟酒井榮八儀當酉二十歳相成申候右之者當
分養子仕度奉願候若於在所不慮之儀茂御座候者跡
式榮八に被下置候機奉願候以上
安永六酉年六月 酒井雅樂頭忠以(花押)
松平右近將監殿 (※松平武元)
松平右京大夫殿
松平周防守殿
板倉佐渡守殿
田沼主殿頭殿 (※田沼意次)
別に添書壹通左のとし
本書に奉願候弟榮八儀去ル巳年在所に罷越候節當
分養子奉願候者に而御座候 以上
六月廿三日 酒井雅樂頭 -
同年に兄に実子・忠道が生まれると、仮養子願いも取り下げられてしまう。
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他大名家(土井主膳)からの養子縁組の話もあったが、抱一は文芸の道に入り、出家前は俳諧、金春流の能、古典、書などに打ち込んだ。さらに長崎派の宋紫石・紫山親子について画も学び歌川豊春の影響を受け浮世絵も描いた。
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また狂歌にものめり込み、四方派の大田南畝(狂名 四方赤良)らと交わった。「通言総籬」序で「猿人卿と共に、京傳を愛の一曲を唱て、糸巻をチひねるごと爾。」と結んでいるが、この「猿人卿」(尻焼猿人)とは酒井抱一のことである。
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安永9年(1780年)には大手上屋敷の長屋へと移っている。
一、安永九年子五月昨日御上屋敷御長屋出来ニテ御引移
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安永10年(1781年)兄・酒井忠以が光格天皇即位礼に奉賀の使いとして上洛するのに、従者として扈従する。2月27日江戸発、3月13日京都着、4月8日江戸着。※4月2日天明改元。
一、安永十年丑 月京都御名代之節御同道御旅中之御名酒井旗之助と奉称
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天明元年(1781年)には兄のお国入りに従って姫路入りしている。※往路9月21日~10月7日。復路天明2年(1782年)4月15日~5月朔日江戸着。
一、同年九月廿一日御同道ニテ姫路エ御発駕御旅中之間御名杜岡鞆藏と奉称御旅中御側御用人ニ御加ハリ也
- ※天明7年(1787年)頃には実兄で藩主の忠以は茶会に凝っており、松平出羽守(松平不昧)との手紙のやり取りが多い。
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天明7年(1787年)10月1日兄・酒井忠以が、家斉の将軍宣下奉告で名代として日光社参を命ぜられたのに、従者として扈従する。13日江戸発、20日江戸帰着。
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また天明7年(1787年)には刀剣鑑定に凝っており、未校ではあるものの「古刀銘鑑」のような冊子を版下の清書まで行っている。西ノ内和紙半切で序文四枚、凡例二枚、本文十五枚ある。また大原真守から郷義弘など20口ほどの銘を写したページもあったという。
抑ひ堂神︀の日本國に生る人、和歌讀さるものと剱のかたしけなき事を知らざる者は誠に此國の道に不叶成べし
予屢此道を學ひて其妙なる事を知り、人に解と欲れとも更に解へきの器なし。太公望渭水に釣を雖垂文王不至、諸葛武侯臥龍岡吟詩風月雖□と猶三省劉皇叔なし。呼々千眼見不見予も人またかれも人不爲なり不能にあらす。劍は武美の最上なり、武士の武士くさきを好めとにはあらす、武に居て武を知らすんは今日の名利あしかるへしと、かゝる筆紙をつゝみやすのみ。
天明七丁未晩秋のち雨華庵から田中抱二へ、大正期には永峯光寿の所蔵となったという。 -
また作刀もしていたようで、さらに彫金にも手を出したという。
暉眞 東洋子と號す、抱一上人の作なると云ふ。
暉眞と草書銘に切りたるは抱一上人の作なりと云ふ。勿論自身の作なりや、又は註文品に此銘を切らせしやは知らず。作品は四文の一、又は銀の小柄多く、鋤出し彫、色絵のもの、片切彫のもの、又、之に象嵌を配したる等あり、皆棒柄なり。図様は光琳式の物多きは、自ら下絵を付けられたる如し。奈良風に濱野流を加味し優美なる作風なり。 -
寛政2年(1790年)に兄である二代藩主・忠以が江戸藩邸で死去。長子の忠道が跡を継いだ同じ年、抱一は酒井家本邸を出て蛎穀町中屋敷(浜町と呼ばれ、箱崎川の近くだったため箱崎/筥崎とも書かれる)へと移る。この頃俳号を「筥崎舟守」としている。
寛政二年戌四月廿八日御中屋敷御住居御不審出來ニテ廿九日御引移御住居ハ御物見也此節御本供御忍供ノ御行列相極
居濱町にうつして
夏月こや箱崎の玉櫛笥 -
この頃から俳諧や狂歌も始めており、狂歌は四方赤良(大田南畝)に習っていたという。
天明年間の頃は遍く俳諧に遊び玉ひ、東都に名も聞へさせ玉ひ屠龍○未白雲州公の舎弟○泰卿松前公の舎弟此三人は何れも劣らぬ上手の徒に申せし也。
また狂歌をもゝて遊び玉ひて御狂名は尻焼猿人と申上しいともおかしき御口ずさみもありし。其頃四方赤良公儀御勘定人太田直次郎なんとも御ひたしく罷出し也松前公射程は松前文京(俳号 泰郷)。大田南畝が支配勘定になったのは寛政8年(1796年)11月。
光琳の再発見
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天明5年(1785年)「松風村雨図」を描く。「天明五年乙巳晩春」細見美術館所蔵
書も器用に渉らせ玉ひて天明の頃は浮世絵師歌川豊春の風を遊ばしける
この「松風村雨図」は、いわゆる寛政の改革と前後して(松平定信就任=天明七年以前から出現しており規制に反するものという見方は否定されている)流行した「紅嫌い」の現存最古の作品とされる。
「紅嫌い技法は天明七年より盛行したが、その発生時期を明確にすることは困難で、同六年まで遡らせることは容認できても、さらに五年までの遡及を許す根拠はない。他方、墨彩色技法については、同五年の遺品があり、同年頃に始期が求められる。……結論として、墨彩色が先行し、さ程時期を隔てること無く、版彩色に応用された、とすることができよう」(「紅嫌い技法および同様式の肉筆画法について」田中達也) -
寛政年間(1789-1801)の半ばごろ、尾形光琳(1658-1716)に私淑し、画を残している。一般に琳派は、本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し、尾形光琳・乾山兄弟によって発展、酒井抱一・鈴木其一が江戸に定着させたとされ、特に抱一は江戸琳派と呼ばれる。
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特に雨華時代の「風雨草花図」(通称:夏秋草図屏風)および「月に秋草図屏風」は重要文化財、また「十二か月花鳥図」は宮内庁三の丸尚蔵館所蔵となっている。
かつて尾形光琳は実家・雁金屋を離れて江戸に下向しているが、このときに頼ったのが酒井雅楽頭家であった。一時的に二十人扶持で仕えており、作品が残っていたとされる。ただし当時酒井家は上野厩橋藩5代の酒井忠挙の時代。- 東京国立博物館 - コレクション コレクション一覧 名品ギャラリー 館蔵品一覧 夏秋草図屏風(なつあきくさずびょうぶ)
- 花鳥十二ヶ月図|皇居三の丸尚蔵館 The Museum of the Imperial Collections, Sannomaru Shozokan「十二か月花鳥図」は最晩年に好んだ画題で、畠山記念館蔵(12幅)、出光美術館蔵(六曲一双押絵貼)、香雪美術館蔵(六曲一双押絵貼)、心遠館蔵(12幅)、ファインバーグ・コレクション(12幅)など複数の作品が残る。
春條(小鸞)
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この時蛎穀町中屋敷の新居に女性を伴っており、これは吉原大文字屋の「一本(ひともと)」(摘古採要)あるいは「玉屋山三郎抱え誰が袖(誰袖、たがそで)」だともされているが、現在は同じ大文字屋の「香川」である(閑談数刻)とされている。下線は引用者
小鸞夫人、後に剃髪して、妙華尼と云。鶯邸君御召仕、元は大もんじやの遊女、賀川。敬義門人にて書をよくし、茶を好み、俳諧をし、河東ふし半太夫ふし三味せんを曳
小鸞の書れし般若心経の額、三しま不動尊に納め有之候
向しま梅やしきにて 菊塢方也
しはし目を 松に休むる 梅見かななお吉原火事の際に一と本の手を引いて逃げたという話もあり、さらに混乱に拍車をかけている。 -
吉原では、揚代二分の座敷持(ニ人禿)として8年勤め、天明6年(1786年)春から秋の間に退楼したという。中屋敷に新居ができる寛政2年(1790年)までは大文字屋の内所か寮にいたともいう。
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酒井家では奥女中・春条(はるえ、春條)。画号小鸞(しょうらん)女史、のちに剃髪して妙華尼と号した。
妙華尼
抱一若年からとにかく放縦な我儘ものであつた為か、正妻とて迎へたことはなかつたらしい。吉原へ入りびたりの果には、とう/\おいらんを受出して一緒になることゝなつた。その遊女は大文字樓の誰が袖だといひ、また一本だといひ、兩説あつてその源氏名は分らないが、ともかく本名はおちかといつた。春榮といふ名のあるのは抱一の處へ來てからのことであらう。雅號を小鸞女史と稱した。抱一の傍に居れば自然に教育せられて、俳句もよみ字もよくかいて晩年には抱一そつくりにうまい、繪も一寸はやつたらしい。いつ頃抱一と同棲するやうになつたかは分らないが、凡そ寛政の末頃からか文化の始め頃かと想はれる、抱一へ來てからは表向き御附女中といふ名目で居つた。それが此年(文化十年)剃髪して妙華尼と稱することゝなつた -
さらに3年後の寛政5年(1793年)、本所番場(東江寺〔多田薬師〕隣)へと転居している。ただしあくまで住居は中屋敷であって本所へは時々逗留するという建前となっていた。※俗に信濃河岸と呼ばれており、夏は西日がきつく冬は寒風が烈しかった。
一、寛政五年丑十月九日本所番場須田助十郎殿御屋敷御譲受ニテ御請取
一、同年十月十一日御願ニテ番場御屋敷エ被成御隠居候様被仰出、表向右之御場所御住居ニハ難相成御中屋敷御住居ニテ折々御逗留ニ被爲入候趣ニ可相心得旨被仰出須田は澤田とも。多田薬師の南隣。本所番場の御屋敷は須田助十郎抱屋敷なりしが、寛政五年十月九日御譲受にて住居向畳建具共譲受にて代金二百五十七両二分被差出由忠因主榮八御移徙ありて御住居なりしが、門前は浅草川流れて隅田川につゞき、高殿多田薬師の緑林を見おろし、川の向ひには駒形堂を望みて風景閑寂の地にて、隠宅と成し玉ふに勝れたる所なりしが、意外なるは冬寒気堪がたく、夏さらに涼気なくて夕陽高殿にさし入て、炎暑凌かね玉ひて、僅に四とせを歴て寛政九年の十二月、山村伊勢守へ売渡し給ふ、もとよりいとせまく二百九十七坪の屋敷なりし
(摘古採要)多田薬師こと玉嶋山明星院東江寺は当時東駒形にあり昭和3年(1928年)7月に現在地である葛飾区東金町へと移った。当時の多田薬師は文人墨客のサロン的な場になっており、書画会なども催されていたという。谷文晁などもここで書会をやっている。寛政の改革を進めていた松平定信は寛政5年(1793年)7月に失脚し、老中首座ならびに將軍補佐の任を解かれた。ただしその後も松平信明(三河吉田藩主)、牧野忠精(越後長岡藩主)らが残って寛政の遺老と呼ばれた。この松平信明の右腕が松平乗完(三河西尾藩2代藩主)であったが、彼は酒井忠因こと酒井抱一の叔父に当たる人物(生母里姫のきょうだい)であった。しかしこの松平乗完も寛政5年(1793年)8月に死去する。 -
宝暦~文政年間には水戸中納言(8代徳川斉脩)との交流が活発になっている。水戸家臣・岡本伝之助(政尹、御前小姓。号小村/小邨)との手紙が数多く残る。揮毫や画、鑑定をたびたび頼まれていたようである。
徳川斉脩(とくがわ なりのぶ)は常陸国水戸藩の第8代藩主。御簾中は第11代将軍・徳川家斉の七女・峰姫(第12代将軍・徳川家慶の異母妹で、14代将軍・徳川家茂の父徳川斉順の同母姉)。7代藩主・徳川治紀の長男として江戸小石川藩邸に生まれる。母は松永直良の娘・五百(浄生院)。幼名は栄之允、のち鶴千代。諡号は哀公、字は子誠、号は鼎山、天然子、信天翁、瓢亭など。
若年の頃は聡明で知られ、義公(2代藩主光圀)の再来と期待をかけられた。文化7年(1810年)7月元服。従四位上、左衛門督。文化8年(1811年)12月に正四位下に昇叙し、左近衛権少将を兼任。文化11年(1814年)12月従三位に昇叙し、右近衛権中将に転任。文化13年(1816年)、父・治紀の死去を受け、家督を継いだ。時に20歳であった。12月11日、参議に補任。文化8年(1811年)12月1日、権中納言に転任。文政12年(1829年)斉脩は10月4日に死去した。享年33。遺書において、自分は薄徳の身であるから、葬儀は簡素にし、諡号も先代たちのように立派なものではなく「哀」か「戻」にして欲しい、とあったことから、哀公と諡された。異母弟である三男の敬三郎(紀教、のちの斉昭)が跡を継いだ。
出家(抱一号)
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寛政9年(1797年)10月抱一37歳の時に、西本願寺の文如上人(1744-1799)が江戸に下ってきたのを機として剃髪して出家し、等覚院文詮暉真と号した。権大僧都の僧位となる。また九条家の猶子となり準連枝と遇せられている。
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同年11月~12月には京へ挨拶旅行を行っている。この頃にはお付きの諸士は給人格3人(鈴木春卓、福岡新三郎、村井又助)のみと書かれている。11月3日発駕、17日京都着。12月3日京都発駕、14日江戸着、17日築地安楽寺着。
寛政九年丁巳十月十八日、花洛文如上人参向ありしおりから、御弟子となりて頭剃おとし
遯るへき山ありの實の天窓かな
いとふとて ひとなとかめそ うつせみの
世にいとわれしこの身なりせは寛政九年十月十八日、築地本願寺ニ於て夜酉ノ刻御得度有之、等覚院殿と奉称
同年十一月三日、京都エ御発駕、十七日京都御着
同年十二月御不快ニ付、江戸表ニ御下向被成度、御門跡エ御願ニテ、十二月三日京地御発駕、十七日御帰府、築地安楽寺エ御住居 -
のち浅草千束へと移った。
京都より御歸りの後は安樂寺におわしますへき筈なるに窮に御栖隠ありて築地には御座なされすして蓑輪の邉にいとせまき御住居なり。其後は淺草觀音の境内辨天の池のほとりに御幽棲にておわしましける。此頃は大手へも御うと/\敷て御音つれもなかりし也
入間郡千束村に庵おむすひて
いとひこすうき予の外の柴の戸に
ひとく/\と鶯のなく千束は豊島郡のはずだが、そう書かれている。 -
寛政12年(1800年)には住吉太鼓橋夜景図を描いている。8120_住吉太鼓橋夜景図(個人蔵) :: 東文研アーカイブデータベース
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出家の翌年、老子の巻十または巻二十二、特に巻二十二の「是以聖人抱一爲天下式(是を以て聖人、一を抱えて天下の式と為る)」の一節から取った「抱一」の号を付け、終生名乗り続けた。
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この頃谷文晁・亀田鵬斎・橘千蔭らとの交友が本格化し、また市川團十郎(5代目、初代市川白猿)とも親しく、向島百花園や八百善にも出入りしていた。
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文政元年(1818年)の自筆句集「軽挙観句藻」
戊寅春
元日やさてよし原は静なり
遊女蕋雲が身うけされて席を出るを
菜の花を蒔ちらし行門出かな
三月廿三日初かつほ
白銀の箸を辷るや初かつほ
翌日八百善が石濱の別業にて
二日目は矢吹き早也はつなまり
四月廿二日素月尼陸羽に行を
松島へ見送る笠や夏の肌
南無佛菴が枕に発句せよと乞ふに
これや此千とせの坂をつくね薯蕷
五月六日駐春亭にて
菖蒲湯やふすま袋の馬回
遊女は此鳥に笠をぬわせ晋子はこのとりに簑を作らしむ今や林民予に俳諧の名を乞ふ鶯簑の二字呼ひよからんとて
夕立や藪鶯の簑借さん
田女判者披露
笈を負ふこゝろさし有夏木立
寅八月前栽の草木旱魃につかれて葉を巻枝をたれてその景色見るに忍ひず庭男に水をかつかせ肩を労することそも又見るに忍ひす
打出せ雨も野槌の神ならは
天地感應あるへき句にもあらねと幸にも翌七日大雨降る
稲妻やさて金閣寺銀閣寺
山彦おかね八つ績の三絃箱に銘のそまれけるに(中略)是は/\京大和おも抱あるきしと聞へし 銘棹鹿
さほしかや耳なし山も明けて聞け -
文化2年(1805年)には浅草弁天山に移る。
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さらに文化6年(1809年)には下谷金杉大塚村(下根岸)へと転居し、ここに庵・雨華庵(うげあん)を設ける。
これは無量寿経の「大千応感動虚空諸天人当[雨]珍妙[華]」あるいは「應時普地六種震動天[雨]妙[華]」から取ったのではないかとされている。ちなみに小鸞は出家後に妙華尼と号している。この雨華庵の額の題字は、甥に当たる酒井忠実(姫路藩4代藩主)が揮毫している「文化十四年丁丑十月十一日乙巳書之従四位下雅楽頭源朝臣忠實」。抱一とは交流が深く、抱一の句集では「玉助」の名で登場しており、また抱一の部屋住み時代の堂号「春来窓」を継承し、抱一が忠実の養嗣子就任の際に贈った号「松柏堂」を名乗っている。正室の隆姫(横須賀藩4代藩主・西尾忠移の娘)も抱一から「濤花」の俳号を贈られている。 -
文化10年(1813年)に自撰句集「屠龍之技」(とりょうのぎ)を出版しており、大田南畝が跋を寄せている。
跋
覃識抱一隱君盖三十有余年。隱君之操。終始如一。性好
誹諧。善圖畫。覃雖不知誹諧者。觀其畫之日進。而又知
誹語之韵。響中宮商矣。古云。詩有聲畫。畫無聲詩。隱
君之思。有以有聲發者。有以無聲發者。有無不遣。亦何
自在也。宜乎辭朱門而處白屋。舍熏灼而就閑曠也。屠龍
之技。可以消日矣。若夫庖丁之刀。目無全牛。陳平之肉。
宰割天下。果何益矣。龍乎々々。屠而獲珠。如覃俗吏。
希其鱗爪。亦不可得已。
文化癸酉清明後日南畝覃
書于緇林樓中 南 畝「覃(大田南畝)識抱一隱君盖三十有余年。」と書いている通り、大手町邸の部屋住時代からの知り合いであることがわかる。 -
文化12年(1815年)には光琳百回忌を催している。また毎年6月2日には光琳忌を行っている。
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文化14年(1817年)には建部巣兆(秋香庵)の句集「曾波可理」に序を寄せている。
巣兆句集序
秋香葊巢兆は、もと俳諧のともたり。花晨月夕に句作し
て我に問ふ。我も又句作して彼に問ふ。彼に問へば彼讖
り、我にとへば我笑ふ。われ畫ばかれ題し、かれ畫ば我
讚す。かれ盃を擧れば、われ餅を喰ふ。其草稿五車に及
ぶ。兆身まかりて後國村、師を重するの志厚し。一冊の
草紙となし、梓にのぼす。其はし書せよと言ふ。いなむ
べきにもあらず。頓に筆を採て、只兆に譏られざる事を
なげくのみなり。
文化丁丑五月上澣日 抱一道人屠龍記建部巣兆(たけべ そうちょう)は書家山本龍斎(名は維碩、字は松甫)の子供として生まれ、千住藤沢家の養子となり藤沢平右衛門と称した。俳諧を春秋庵白雄に、画を谷文晁に学んだ。名は英親、別号は秋香庵、黄雀など。関屋の里に秋香庵を構え、掃部宿・河原町・橋戸町の人々を中心に構成された俳諧集団「千住連」を率いた。自ら「倭絵師」と称して書画も能くした。義兄亀田鵬斎、小林一茶、酒井抱一、大田南畝らと交わった。巣兆は文化11年(1814年)に亡くなっており、この「曾波可理」は弟子・国村が刊行した。序は亀田鵬斎と酒井抱一。亀田鵬斎と酒井抱一とは特に親交が厚く、序文から両者は句や画の制作を共にする間柄だった事がわかる。亀田鵬斎(かめだ ぼうさい)は書家、儒学者。江戸神田生まれ。父・萬右衛門は日本橋横山町の鼈甲商長門屋の通い番頭であったが、鵬斎が7歳のころにこの長門屋を継いだ。母の秀は、鵬斎を生んで僅か9ヵ月後に歿した。6歳にして三井親和より書の手ほどきを受け、町内の飯塚肥山について素読を習った。14歳の時、井上金峨に入門。才能は弟子の中でも群を抜き、金峨を驚嘆させている。私塾(乾々堂→育英堂→楽群堂)には多くの旗本や御家人の子弟などが入門した。寛政の改革が始まると幕府正学となった朱子学以外の学問を排斥する「寛政異学の禁」が発布される。山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴とともに「異学の五鬼」とされてしまい、千人以上いたといわれる門下生のほとんどを失った。享和2年(1802年)に谷文晁、酒井抱一らとともに常陸国(現 茨城県龍ケ崎市)を旅する。この後、この3人は「下谷の三幅対」と呼ばれ、生涯の友となった。文化5年(1808年)に妻・佐慧が歿すると寂しさを紛らわすためか翌年日光を訪れそのまま信州から越後、さらに佐渡を旅した。3年にわたる旅費の多くは越後商人がスポンサーとして賄った。60歳にして江戸に戻ると、その書が大いに人気を博し、人々は競って揮毫を求めた。一日の潤筆料が5両を超えたという。この頃、酒井抱一が近所に転居して、鵬斎の生活の手助けをしはじめる。文政2年(1819年)、私財を投じて高輪の泉岳寺に、赤穂浪士の「赤穂四十七義士碑」を建てている(もとの碑は破壊されたため、現在のものは明治43年に重刻再建されたもの。 -
文政11年(1828年)11月29日下谷根岸の庵居、雨華庵で死去。享年68。
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墓所は築地本願寺別院(東京都指定旧跡)。法名は等覚院殿前権大僧都文詮暉真尊師。葬儀から七七日(四十九日)法要まで酒井雅楽頭(先代忠実)から費用が出たという。
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形見分け。差料行光の短刀 銘「山雀」は池田孤邨か田中抱二が拝領し、昭和初期には藤田英次郎氏が所持していたという。
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小鸞こと香川は最期を看取ったという。小鸞は天保8年(1837年)10月27日死去。抱一の墓の横に葬られた。
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酒井鶯蒲(さかいおうほ)は築地本願寺の末寺である市ヶ谷浄栄寺住職、香阪壽徴(雪仙)の次男で、小鸞の願いを受けて文政元年(1818年)に11歳で雨華庵へと入った。この酒井鶯蒲も絵を能くし、作品が残る。天保12年(1841年)に34歳で死去。
この鶯蒲を春條との間の子とする説もある。 -
雨華庵は、酒井鶯一が継いだ。酒井鶯蒲に子はなく、築地善林寺の長子を養子とし雨華庵3世酒井鶯一として継がせた。この酒井鶯一の妻が「おすま」である。このおすまの手帳覚に慶応元年(1865年)8月21日に雨華庵が焼けたことを記す。
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その他
日本刀
- 父・酒井忠仰、兄・酒井忠以ともに日本刀を作刀しており、酒井抱一自身もいくつか残している。酒井家の「姫路酒井家宝器明細簿・乾」では(一族による作刀)43口が数えられ、うち11口が現存している。
転居歴
- 「閑談数刻」の「御住居」
- 大手御句集に小かねの駒あり
- 本所椎の木やしき脇 ※本所番場東江寺隣
- 大音寺前 千束邸と云 大もんじやうしろ裏道也 ※浅草千束この「大音寺前 千束邸」であり大文字屋後ろ裏道というのが大文字屋を落籍せた香川と会うためであったともされる。
- 鳥こえ 紙あらい橋角
- 下谷金杉うしろ大塚鶯邸 初音の里と云 雨華庵是也 此所に而御入定被遊候 ※下谷金杉大塚村
松葉屋粧ひ
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松葉屋半蔵抱えの遊女「粧(よそお)ひ」(銀杏紋)に和歌発句を手ほどきしたという。
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身請けされた時に俳句を残している。
遊女蕋雲が身うけされて席を出るを
菜の花を蒔ちらし行門出かな