名刀幻想辞典

松葉屋粧ひ

松葉屋抱「粧ひ」

吉原松葉屋半蔵抱えの遊女
半松楼の粧太夫
蕋雲女史(蕋雲、しゅううん/ずいうん、はなぐも)
文鴦

  • ※ 「代数について」で述べるように、「粧ひ」名跡は次々と入れ替わっている。ここでは酒井抱一に歌の発句を習い、後に人丸社の「柿本人麻呂歌碑」を揮毫した「銀杏紋粧ひ」を扱う。

概要

遊女「粧ひ」

  • 文化3年(1806年)春に14歳で突き出し。
  • 当初松葉屋(半蔵)での順位は11枚目でありつつ、揚代は最高値の1両というところからも期待のほどがわかる。
  • 文化3年(1806年)秋には4枚目、文化6年(1809年)春には2枚目、文化11年(1814年)には筆頭へ登っている。

代数について

  • 「粧ひ」は松葉屋でも重い名跡であったため、吉原細見でも途切れることがなく代数把握が難しいとされる。

  • しかし文政3年(1820年)にはきく紋の粧ひに変わり、揚代も三分まで落ちており(ただし筆頭)これが次代。さらに文政6年(1823年)春には三つ柏紋で4枚目に下がったあと文政9年(1826年)までに順次2枚目まで上がっており、これは次々代だと見られている。その次は朝顔紋へと代わっている。

  • また享和年間の「太夫花見立」には先代と思われる(禿「とめき、にほい」)粧ひがいる。また同時期には禿が「にほい・やよい」ともなっている。「北里見聞録」によれば、文化10年(1813年)の粧ひは三代目なのだという。また寛政頃の粧ひは二代目だとする。

  • しかし現在では少なくとも寛政年間の粧ひ(太夫という。二代?)→享和年間の粧ひ→文化3年「銀杏紋粧ひ」→文政3年「きく紋粧ひ」→文政6年「三つ柏紋粧ひ」→文政10年「朝顔紋粧ひ」(3代?)が確認できるため、すでに代数は異なっている。

    寛政12年(1800年)、呼び出しで揚代75匁の太夫に相当する遊女は、伏見町に7人、江戸町一丁目の松葉や半左衛門抱え染之介・瀬川・喜瀬​​川、扇屋右衛門抱え瀧川、江戸町二丁目丁子屋長十郎抱え雛鶴、角町松葉屋半蔵抱え粧ひ、兵庫や伊助抱え月岡、これらが太夫職だったという。また文化5年(1808年)時点で揚代60文は松葉屋粧ひと大文字屋一もとの両名がおり、これは元格子の格なのだという。さらに「北里見聞録」は文化14年(1817年)刊だが、当世の遊女は裾綿の和服を着ているが、これは元禄以降の「粧ひ」がはじめたとも言われる。
  • 参考

和歌

  • この「粧ひ」は、松葉屋(半蔵、半松楼)でも重要な名跡の一つであった。

  • 酒井抱一が手ほどきした当代粧ひもまた、美貌で才気煥発であったため幼少期より将来を期待され、実の娘のように育てられ、一流の文人たちから各種芸事を仕込まれたという。

    松葉や粧 角町まつばや半蔵抱也 幼時より郭へ入て娘同様に育ち、中の町に出しにより大に客有て、吉原の一と呼れたり。
    書    教義先生門人
    茶    廣井宗微
    和哥発句 鴬邨君
    香    松葉屋隠居

    吉原の「松葉屋」は、3軒あったとされ、いちばん有名なのが半左衛門の松葉屋で、これは「表紙をはねると松葉屋半左衛門」という川柳で知られる通り江戸町一丁目にあった。また「仁平次」の松葉屋がありこれは江戸町二丁目。さらに「半蔵」の松葉屋は京町二丁目にあったとされる。これ以外に角町にも松葉屋があったとされるが、これは吉原細見でも連続せずよくわかっていない。
  • 松葉屋半蔵抱えの遊女「粧(よそお)ひ」(銀杏紋)は、酒井抱一に和歌発句の手ほどきを受けたという。

  • 亀田鵬斎からは「蕊雲」という号を贈られており、浅草の人丸社に歌碑を奉納している。後述

  • 和歌上手な遊女36人を選んで編まれた「今容女歌仙」に和歌が載る。

    逢ふことをまつに月日はこゆるきの 磯にいてゝや今そうらみむ
    (今容女歌仙)

身請け後

  • 浅草鳥越(横山町三丁目)の糸問屋・嶋屋長右衛門に身請けされたという。

    見附うら嶋屋(糸渡世)の妻と成、其後夫長右衛門病死して家も人ニゆづり、剃髪して岡田屋孝助より扶持をもらひ、出見世二けんよりも月々のものを送りもらひ、新鳥越に閑居して居けり。

  • 文化11年(1814年)には成田山による深川永代寺での出開帳に遊女個人として、黒天鵞絨水引および金五百疋(現在貨幣価値で十数万円)を寄進している。

  • 吉原細見の情報から、寛政5年(1793年)生まれ、安政3年(1856年)に64歳だったという。

浅草神社の柿本人麻呂歌碑

  • 文化13年(1816年)8月に「柿本人麻呂歌碑」を揮毫し人丸社に奉納した。浅草寺 浅草神社(旧、三社権現社)に粧太夫書による「柿本人麻呂歌碑」(粧右蕋雲太夫の碑とも)が残る。当時の女性とは思えぬ筆太で力のある見事な筆致で、柿本人麻呂の歌が万葉仮​​名で刻まれている。

    保農々々登ほのぼのと 明石能浦廼あかしのうらの
    旦霧爾あさぎりに 四摩伽久礼行しまがくれゆく
    不念遠之所思ふねをしぞおもふ
       蕋雲女史文鴦書

    便宜のために読み仮​​名を付けた。現代仮​​名遣い「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 嶋がくれゆく船をしぞ思う」古今和歌集 巻第九 羇旅歌。古今和歌集では「よみ人しらず」だが古くから柿本人麻呂と伝わる。

     有名な万葉歌人柿本人麻呂の和歌を万葉仮​​名で刻んだもので、骨太な文字を認めたのは、碑文にあるように蕋雲女史である。
     蕋雲は文化年間(1804~1817)、遊里新吉原の半松楼に抱えられていた遊女で、源​​氏名を粧太夫といい、蕋雲はその号である。
     粧太夫として当時の錦絵にも描かれており、書を中井敬義(なかいたかよし)に学び、和歌もたしなむ教養ある女性で、江戸時代の代表的な文人、亀田鵬斎(かめだぼうさい)から蕋雲の号を送られたほどの人物であった。
     この歌碑は、人麻呂を慕う太夫が、文化13年(1816)8月、人丸社に献納したものである。人丸社は幕末の絵図によると、三社権現(現浅草神社)の裏手にあったが、明治維新後に廃され、碑のみが被官稲荷社のかたわらに移され、昭和29年(1954)11月、現在地に移された。
       平成8年(1996)3月 台東区教育委員会

  • 文化13年(1816年)8月人丸社に奉納したもので、裏面には師の董堂井敬義天(中井薫堂)の撰文がある。当時人丸社は三社権現の裏手にあったが、明治維新後に廃され歌碑のみが移された。

    蕋雲女史名粧、文鴦爲其字、夙藉于北里半松楼矣。煙花用最錚々者也。天資嫻雅、踊習經史兼嗜國歌、又從余學書、實妓流之才子也哉。蕋雲ママ有禱於淺草寺中人麻呂祠焉、遂自書其神藻朝霧之什、以勒レ石樹之祠傍矣、盖還願也。嗟乎、夫靑泥中之蓮花也者乎、爲記其背。
     文化十三丙子秋八月 薫堂井敬義
               天翁韓篤書

    中井敬義は書家、狂歌師、戯作者。宝暦8年(1758年)生まれ。日本橋本町二丁目の中井清助の子で、日本橋本町在住の商家の番頭。通称中井嘉右衛門。字は伯直。薫堂と号す。雅号は天翁韓(書籍によっては天翁諱とするが撰文は明確に𠦝偏になっている)。大田南畝の門下として狂詩集「本丁文酔」を著す。狂歌は大屋裏住門下で本町連に属した。狂号は腹唐秋人(はらからのあきんど)、戯作名は島田金谷。俳名乙平。他の号に春星、小笠山樵、宣松老人。文政4年(1821年)7月26日64歳卒。築地本願寺塔頭浄見寺。著書に「小笠山房詩抄」、「春星閑話」。