真田十勇士
真田十勇士(さなだじゅうゆうし)
- 尼子十勇士にヒントを得たものとされる。
概要
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原型は、江戸時代中期の小説「真田三代記」に見られるが、「真田十勇士」という表現をはじめて用いたのは、大正時代に刊行された立川文庫である。
「真田三代記」は江戸中期に書かれた作者不詳の史書。真田昌幸、真田幸村、真田大助(幸泰)の、真田家3代の興亡を主題とした講談で、なかでも幸村の大坂の役の奮戦が中心となっている。地雷火を仕掛けたり徳川家康を追い詰める話は有名である。幸村親子は豊臣秀頼を奉じて薩摩へ落ち再起を図る。ただし同書では十勇士ではなく、真田八(九)勇士しか登場しない。 -
「真田三代記」において、猿飛佐助と望月六郎をのぞく8人の原型が登場し(筧十蔵、霧隠才蔵の元になったと思われる筧十兵衛、霧隠鹿右衛門が記載されている)、こうした「真田もの」の講談の流行によって、真田主従は民衆のヒーローとなっていった。
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明治44年(1911年)から大正12年(1923年)にかけて、立川文明堂が出版した「立川文庫」の第五篇「真田幸村」において初めて登場した。作者は、雪花山人または玉田玉秀斎。
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なかでも人気の高かったのが猿飛佐助と霧隠才蔵であった。このため立川文庫では、第四十篇「猿飛佐助」、第五十五篇「霧隠才蔵」を発行した。一番のベストセラーは猿飛佐助であった。
十勇士
- 猿飛佐助
- 架空の忍者だが、木下藤吉郎家臣の猿飛仁助の子孫、上月佐助、三雲佐助賢春がモデルとされる。
真田三代記にすら登場せず、立川文庫でのみ登場する架空の人物。※そもそも真田三代記自体が虚実織り交ぜた軍記物
第五篇「真田幸村」では、忍術の名人として霧隠才蔵とともに登場し、徳川方の軍評定の内容を探ったり、地雷火を仕掛けて敵方を混乱に陥らせたりするが、いうほどは活躍しない。
しかし第四十篇「猿飛佐助」になると、大活躍をする。また素性も明らかにされ、信州鳥居峠の麓に住む鷲尾左太夫という郷士の息子で、山中で猿の群れと戯れているところを戸沢白雲斎という白髪の甲賀流忍術の名人に見込まれさん年にわたって忍術の修行をし、極意を授けられている。のち鳥居峠にきた幸村に見出され十五歳で家来となった。先輩の三好清海入道を煙に巻き、一目も二目も置かせることになる。その後、清海入道と連れ立って天下の傾城を伺うために諸国漫遊の旅に出、京都では南禅寺の山門に住む石川五右衛門と術くらべをする。
さらに第百八篇「猿飛佐助江戸探り」になると東西風雲急を告げるに及んで幸村の命令で東海道を東下し、家康のいる駿府城や秀忠のいる江戸城に忍び込み徳川方の内情を探る。 - 霧隠才蔵
- 霧隠鹿右衛門を元にした架空の忍者。真田十勇士では猿飛佐助に次いで人気があり、司馬遼太郎の「風神の門」では主人公となっている。
真田三代記では、幸村配下の忍者・霧隠鹿右衛門という人物が登場し、冬の陣の際に徳川方・一柳監物の陣屋を偵察する。大坂落城後は幸村に従い、真田大助、荒川熊蔵と協力して秀頼脱出に成功する。
立川文庫第五十五篇「霧隠才蔵」では霧隠才蔵と改名して猿飛佐助の相棒に仕立て上げられる。そこでは才蔵は江北浅井家の侍大将・霧隠弾正左衛門の遺児となっている。浅井家滅亡では郎党に守られて伊賀名張に隠れ、伊賀流忍術の百地三太夫に師事し、忍術の極意を授けられた。後に甲賀流の猿飛佐助と術くらべをすることになる。夏の陣では電光石火の如き大活躍を見せて徳川方の大軍を悩ませ、家康の本陣に忍びいって頸を掻こうとするが失敗する。 - 穴山小助
- 武田旧臣の穴山信君(武田氏の家臣)の縁戚とする。穴山小兵衛に岩千代という嫡子があり、この岩千代が元服して穴山小助安治だという。
真田三代記では犬伏会談からの帰途でも、由利鎌之助、根津甚八らとともに幸村に従っている。また秀忠が上田城を攻囲した際には「穴山小助安治とは我がことなり」と名乗り、秀忠の部将・毛利民部少輔と一騎打ちして槍の腕前を披露し、相手を刺殺して頸を掻き切ったとする。九度山では別府若狭と伴をしており、大坂入城にも海野六郎や三好兄弟、由利鎌之助らと共に従っている。幸村の影武者として、真田の出丸から六文銭の大旗を風にひるがえし、あるいは二千騎余の軍勢を率いて徳川方・奥村次郎右衛門の大軍を散々に破った。この時真田大助も出陣したという。また夏の陣では幸村の身代わりとなり「我こそは真田左衛門佐なるぞ」と大音声で呼ばわり、徳川方の勇士十数人を討ち取った末に、原隼人に斬られた。隼人はそれまでに穴山小助の顔を見ていたが幸村だと思い込んでいたため「真田左衛門佐幸村を原隼人討ち取ったり」と呼ばわったため、徳川方越前勢は一斉に鬨の声をあげたと記す。また家康自身も首実検をした上で幸村だと信じたため、涙を流して幸村の忠勇を褒め称えるが、本物の幸村は秀吉を擁えて薩摩に落ちたという。 - 由利鎌之助
- 鎖鎌の名手。本来は真田氏と敵対し、真田昌幸・幸村親子を繰り返し狙っていたが、幸村に捕まり、それをきっかけに家臣となったという。
真田三代記では、初めは三河野田城主・菅沼新八郎の家来で真田家臣ではなかったが、賤ヶ岳の合戦の折に秀吉方に味方するため三百忍を率いて大いに真田勢を悩ましたという。この時穴山小助と一騎打ちした結果、負けて生け捕りにされ真田家臣になったという。 - 根津甚八
- 禰津小六、浅井井頼などがモデルとされる。
真田氏は信州滋野(しげの)一族であるが、その始祖は盲人だったとされ、医術や妖術と関係があり、修験者や山伏、巫女、音曲師などの集団を支配していたという。この滋野の一族に海野、望月、禰津(根津)の諸氏がおり、海野六郎、望月六郎、根津甚八は真田一族であるとする。
根津甚八は、真田譜代の根津小太郎の変形であるとし、穴山小助らと関が原や大坂の役で活躍して幸村の影武者となるが、夏の陣では「真田幸村であるぞ」と名乗って奮戦したが徳川方本多勢に討ち取られたという。根津甚八の頸をもって家康本陣にいったが、すぐ前に穴山小助の首実検をしたところだったため、本多の郎党は「幸村の頸が二つあるか…」と大喝されたという。 - 海野六郎
- モデルとしては、海野小平太の名も上がっている。
信州の名族海野氏の嫡流は代々小太郎を称する。真田三代記では海野六郎兵衛を名乗る。 - 望月六郎
- 爆弾製造に長けていた。
この望月も信州滋野氏の一族。真田三代記では、望月甚左衛門、望月卯兵衛などの名前が登場する。また上田城合戦では望月太郎左衛門という人物が奮戦したとし、真田三代記の望月六郎はこの変形であるとされる。 - 筧十蔵
- 火縄銃の名手。モデルは、筧十兵衛、又は筧金六郎、あるいはその息子と言われる。
真田三代記では「筧金六郎」と「筧十兵衛」という人物が登場し戦場で活躍するが、「十蔵」なる人物は登場しない。十勇士にするために筧十蔵としたのではと指摘されている。 - 三好晴海入道
- せいかいにゅうどう。「真田三代記」では出羽国亀田の領主出身、立川文庫では三好氏出身の破戒僧。モデルは、大坂の陣において豊臣方で討死した三好政康とされる。真田三代記では、三好新左衛門入道清海。弟の三好伊三入道とともに、三百余騎の将だった。関ヶ原敗戦後に幸村に従って九度山へと入り、のち大坂入城にも従う。
「真田幸村」では、猿飛佐助らと共に武者修行のために諸国漫遊をし、筋鉄を打った八尺ほどの樫の棒を軽々と振り回し、山賊を退治したり剣士と渡り合ったりする。しかし猿飛佐助には敵わず、一目も二目も置いている。大坂落城の際には、秀頼や幸村の脱出を見届けた上、腹を切り自ら頸を掻き落とした。 - 三好伊三入道
- いさにゅうどう。モデルは政康の弟の三好政勝(法名・為三)とされる。ただし史実の政勝は徳川方について大坂の陣に出陣している。
「真田三代記」では、兄とともに行動するが大坂落城では腹を切りながら辞世の狂歌を高らかに吟じたとする。「落ちゆかば地獄の釜を踏み破りあほう羅刹に事を欠かさん」享年84。