名刀幻想辞典

波平行安

波平行安(なみのひらゆきやす)

平安時代後期薩摩国波平に住した刀工一派の相伝名
行安の名は明治に至るまで波平派の嫡流によって襲名され続けた。

概要

  • 行安あるいはその始祖の正国が大和から出たとする。大和国から移住してきた正国の子と伝えられるが正国の作刀は現存せず、行安が波平派の事実上の祖とされる。

  • またそうではなく始祖の正国が波平行安を名乗り初代となったとの説もある。

    【室町頃までの略系図】
     
    初代
    波平行安二代行安
    [仁安][正和二年・嘉暦四年]
        
                [貞和]   [応永]  [正長]  [文明・明応]
        波平安行───┬二代安行──┬三代安行──四代安行──五代安行
        [正和二年]       
        [嘉暦四年] 行次    吉行[明応二年]
              [正平二十四年]吉宗[応永二年]
                      正行[応永十年]
        波平家安──────波平安俊
         谷山波平草家安法師[貞和]
        [正和二年]
        
        波平安綱──────波平安家
        [文保]      [貞和]
        
        波平安光──────波平安明─────波平安朝
         [正慶元年]    [永和三年]   [永享十年]
         [貞和二年]
  • 「波平行安」という名の由来は、薩摩定住を決めた正国が大和から家族を呼び寄せる際、船が嵐に遭遇したという。正国が船に乗る前に試し打ちした刀を海の神に捧げ祈ると、嵐は静まったという。これより後、正国は「波は平らかに行くは安し」という意味で「波平行安」を名乗ったと言う。

  • その作風は小鋒で腰反りの深い太刀姿で、白気ごころの地鉄に細直刃を焼く古風なものである。 以降も明治に至るまで行安の名は波平派の嫡流によって襲名され続ける。これは刀工流派としては最も長いものである。

代表的な刀

笹貫
ささぬき。太刀 銘「波平行安」。初期の行安による作刀。重要文化財。京都国立博物館所蔵。
e国宝 - 太刀 銘波平行安
鬼神大王波平行安
鬼神大王波平行安」。鬼が打ったという伝説の刀。
兵庫鎖太刀
銘「行安」二尺四寸四分。大正8年4月12日旧国宝指定。愛知県猿投神社所蔵
猿投神社蔵
太刀 銘行安。長70.9cm、反3.0cm。大正8年(1919年)古社寺保存法による旧国宝指定、昭和25年(1950年)8月29日(新法により)重要文化財指定。愛知県の猿投神社(さなげじんじゃ)所蔵。兵庫鎖太刀拵が附く。現状の鞘は江戸時代に、室町時代初期頃の金銅丸鞘太刀の鞘で補って取り合わされたものとされる。国指定文化財等データベース
太刀 銘 行安   一口 大正八年四月指定
 拵 兵庫鎖太刀
       愛知縣西加茂郡猿投村
            縣社 猿 投 神 社
    長サ七〇・七糎(二尺三寸三分三厘)反リ三・〇糎(一寸)
    元幅二・八糎(九分二厘)     先幅一・五糎(五分)
    鋒長二・四糎(七分九厘)
ただし刃長は1984年刊の別の本では76.9cm、反り1.3cm、先幅1.5cm、元幅2.8cmとなっているため誤記だろうと思われる。目釘孔1個。
問注所氏に贈られた刀
休松の戦いののち、大友宗麟が問註所鎮連(刑部入道善聴、天正2年没)に贈った太刀。
同年(永禄十年)九月休松大戦ノ後鎮連左右良山城ニ在テ、秋月ヲ押ヘテ守ル。鎮連力軍功ヲ賞セラレ陣刀ヲ賜ハル御書、御劒銘ハ波平行安
  今度別而被勵馳走剩左右良山被取誘忠儀不可有別儀心懸深重
  候由在陣従年寄共所申遣候乍案中祝着不斜毎事於其境無油断
  才覺頼存候仍大脇刀一腰遣之候連々秘藏候條於自愛者可喜悅
  候猶吉弘太郎入道可申候恐々謹言
   十一月八日
     宗 麟 公 御判
          問註所刑部入道殿
休松の戦いは、永禄2年(1559年)に大友氏と秋月氏の間に起きた九州筑前国での合戦。
「左右良山」は、福岡県朝倉市にある標高295メートルの山で、一般的には麻底良山(までらやま、麻氐良山)と呼ばれている。
吉弘太郎入道は吉弘鎮信か。
島津久光の献上刀
島津久光が島津忠義とともに、文久元年(1861年)12月に孝明天皇に献上した波平行安。
(文久元年)十二月、公、茂久公(忠義)ト謀リ中山尙之介實善ヲ京師ニ遣ス、斉彬公ノ遺志ヲ達センコトヲ近衛家ニ建言シ、其書今傳ハラス又同家ニ由テ波平行安ノ劒ヲ内獻ス。尙之介京師ニ抵リ建言書ヲ呈ス、左大臣忠煕大納言忠房二公謁ヲ賜フ。十二月劒ヲ進ム尋テ二公再ヒ尙之介ヲ延見シテ封物ヲ授ク手把ニテ包ミ封緘ヲ施ス。尙之介奉シテ退キ二十四日復命ス。茂久公手カラ緘ヲ啓ク。奉劒ヲ嘉納シ給フ叡感ノ御製ナリ。兩公恐懼謝スル所ヲ知ラス。東向拜首稽首シ天恩ノ辱キニ感激シ便チ之ヲ匱中ニ祕藏シ、親ヲ其拜奉ノ始末ヲ記シテ以テ傳家ノ寶ト爲ス。謹テ宸翰ヲ左ニ掲ケ附スルニ始末ノ記ヲ以テシ、併テ近衛公ノ副書及復書ヲ録ス。
「茂久」は島津忠義のこと。島津忠義は薩摩藩12代藩主。元服後の初名は忠徳(ただのり)だったが、藩主在任中は茂久(もちひさ)を名乗る。なお、忠義は維新後の慶応4年(1868年)1月16日に改名した諱である。
中山尙之介は幕末の薩摩藩士。島津斉彬の小姓として仕え、のち藩主・忠義の後見となり、その父・久光に見出され再び小姓に登用される。学識深く古今の制度に通じていた事から腹心として重用され、大久保一蔵(利通)や小松帯刀を抜擢している。堀次郎、大久保とともに御小納戸役に任じられる。一時は久光の右腕として権勢を振るったが、薩英戦争で精忠組が復権してくると、藩内の尊攘派からは西郷を島流しにしたと憎まれ、また偏狭な性格もあって失脚した。1876年(明治9年)、大久保利通、木戸孝允の暗殺を企てたとして警視庁に逮捕される。翌年、懲役10年の判決を受け、獄中で没した。享年46。
斉彬云々は、この献上話はもともと11代藩主・島津斉彬が奏上して許可を得ていた話だったが、その後急死したために延引していた。
島津斉彬の佩刀
島津斉彬の佩刀というよりは当時伝わっていた名刀として、三条小鍛冶宗近千鳥一文字(二尺一寸四分)、粟田口国綱堀尾正宗芦屋正宗敦賀正宗島津正宗、延寿国定、薩摩鍛冶の波平行安(短刀)、波平行正(二尺七寸二分)などがあったという。
桐野利秋
南洲神社教育参考館にあったもので、白柄、朱鞘の三尺一寸。他には関和泉守兼定(之定)二尺五寸、明治2年(1869年)に庄内藩主が薩摩入りした際に拝領した綾小路定利(文永)
鹿児島市立教育参考館は、かつて南洲神社(鹿児島市)の隣りにあった施設(教育参考館という建物は明治終わり頃全国に建てられていた)。元は明治天皇に長く仕えた高倉典侍が、自らの貯蓄と明治天皇からの下賜金で明治43年(1910年)に東京市麴町區平河町に建てたもの。これを大正3年(1914年)に鹿児島縣が譲受け、大正8年(1919年)南洲祠堂(南洲神社)の西北に移転改築したという。この譲受は、川崎造船創業者の川崎正蔵が薩摩国鹿児島城下下町大黒町(現:鹿児島県鹿児島市大黒町)生まれだった縁による。大正5年(1916年)9月11日、川崎芳太郎(正蔵の娘婿で養嗣子)により寄附願が出されている。太平洋戦争の空襲で焼けたが、現在は恐らく南洲墓地になっているのではないかと思われる。
高倉典侍が 明治天皇並に 昭憲皇太后陛下よりの御下賜金と、多年勤倹とにより七年前宮内省技師の設計にて建てられたる家屋を譲受け候に付、南洲祠堂内に移輾改築の上、寄附致度候。
  大正五年九月十一日
          神戸市加納町一丁目十五番地
                     川崎芳太郎
鹿兒島市長山本徳次郎殿
深大寺蔵
浮岳山昌楽院深大寺(調布市深大寺元町)の寺伝によると、天正年中世田谷城主であった吉良氏が寺塔を再興し寺領を寄進し、波平行安の太刀を奉納したという。
※大正年間までは書物に載るが、その後どうなったかは不明。
三尺二寸。世田谷御所吉良氏奉納(武蔵名勝図会)
世田谷の吉良家深く尊信し再び堂宇を営み波平行安の刀等を寄附す。無銘。長四尺五寸あり(江戸名所図会)
長四尺五寸ばかり。無銘の刀なり。土中よりも出しにや、さびつきて甚古し(調布日記)
芝大神宮
芝大神宮(東京都港区芝大門一丁目)の寺伝によると、源頼朝は建久4年(1193年)に芝大神宮に社参し、豊島郡入間川より荏原郡玉川に至る堺において千三百餘貫の神田を寄進し、波平行安の太刀を奉納したという。
吾妻鏡によれば、同年3月21日に下野那須野に狩りをし、翌4月28日帰還。武蔵では3月25日入間野にて追鳥狩を催しており、この時に奉納したのではと推測されている。
光山押形
光山押形乾にも波平行安が一口載っている。銘 波平行安。目釘孔3個。
※現存しているかは不明。
柳生宗盈
(宝永二年六月)廿七日、宗盈公岩城月峰殿ヨリ刀一腰代金一枚ヲ贈玉フ。波平行安也。

大和国柳生藩の世嗣。和泉国岸和田藩主・岡部長泰の五男に生まれ、柳生藩主・5代柳生俊方の養子となり、宝永2年(1705年)に徳川綱吉に拝謁する。しかし、宝永5年(1708年)に廃嫡されて実家に戻り、家臣となった。結局柳生藩主は伊勢国桑名藩主・松平定重の十一男が継いで6代柳生俊平となった。
岩城月峰は岩城重隆。(戦国武将で岩城氏15代当主の同名人ではなく)出羽国亀田藩3代藩主。宝永元年(1704年)2月10日に隠居して孫の岩城秀隆へ家督を譲っている。月峯と号したのは隠居後。宝永4年(1707年)12月11日没。
※戦国武将で岩城氏15代当主のの娘・久保姫が伊達晴宗に嫁いでおり、その子・岩城親隆(16代)が岩城氏を継ぎその子・常隆(17代)を継ぎ、さらに岩城親隆の姉妹の佐竹義重の子の岩城貞隆(18代)と岩城吉隆(佐竹義隆、19代、亀田藩初代)が継いだ後、岩城宣隆(21代、亀田藩二代)と続き、その子が岩城重隆(岩城月峰、亀田藩三代)である。この岩城月峰の母は顕性院(御田の方)は、真田信繁(幸村)の娘で豊臣秀次の孫に当たる。
【岩城氏】
 
岩城重隆15─┬久保姫
      ├───┬伊達輝宗──伊達政宗
     伊達晴宗 
          岩城親隆16──岩城常隆17
          
          女 【亀田岩城家】
           ├──┬岩城貞隆18──岩城吉隆19佐竹義隆─┬佐竹義寘
     宮山玉芳                ↓    佐竹義処3──佐竹義格4
        ├─佐竹義重─│───佐竹義宣1━━━━佐竹義隆2  佐竹義長──佐竹義峯5
      佐竹義昭            【出羽久保田藩】
               岩城宣隆20
                 ├──岩城重隆21──岩城景隆──岩城秀隆
               御田の方 月峰【出羽亀田藩】
     豊臣秀次──隆清院 
            ├──┴三好幸信
           真田幸村
 
※青数字は岩城氏宗家の代数
※緑数字は出羽久保田藩主の代数
狩野一信の拝領刀
狩野條之助一信は、筑前藩御用絵師の狩野昌運季信の子。(※幕末の狩野一信豊次郎、逸見一信ではない)。
江戸生まれ、幼名は茂之丞。17歳で元服し久米之助と名乗る。珍止堂、白雉里、薄散人、隠居後に松雲齋。立支と号したという。かなり眉唾ではあるが、系図によれば、母は北条出羽守氏重(遠江掛川藩主など)の国元の息女だといい、そのために黒田綱政より北條の一字を取り條之助と名乗るよう仰せ付けがあり、同時に折紙付きの波平行安の刀を拝領したのだという。しかも絵師でありながら、後年は絵を書くことを止められ、和田一信と称して左右に侍したという。
※この狩野一信の弟が栗田季久だという。宝暦3年(1753年)6月16日に江戸で卒、享年61。
高野山
藤堂高虎が西明院に寄進したもの。文化2年(1805年)西明院から鑑定に出したのか、西明院宛の本阿彌喜三次(本阿弥長根本阿弥喜三二?)による折紙が附いていた。二尺二寸。折紙は文化2年(1805年)。
※現存しているかは不明。
※なお現在高野山には「西明院」という宿坊はないがかつて存在していたようで、藩主の五輪塔にも「今ハ光輪院」と書かれている。その上この光輪院も今は存在しないという。高野山における二つの藤堂家墓地:高室院文書と石造物の調査から | NDLサーチ | 国立国会図書館※墓地の位置も記載されている。
一、波平行安刀寄附状添藤堂和泉守高虎寄附一腰
   藤堂和泉守寄進状
一筆致啓上候、然者御祈祷彌永世不怠御頼申入候、依之波平行安一腰致法納候間、落手可給候、恐々謹言、
  三月七日    藤堂和泉守
 西明院御坊中     高(花押)
   本阿彌喜三次極書
刀出来、中心銘相改候處、正眞相違無之候、此度相究候、
 付位 斤三拾枚
  究相附可申候、折紙仍而如件、
    波平行安
      御刀長サ貳尺貳寸  一腰
                  本阿彌
                   喜三次
 文化二年
   八月乙丑八月日
     西明院殿
   本阿彌喜三次極書添状
   波平行安
     御刀 一腰
右此度研之上、疵之處相改候得共、無疵ニ相違無御座候、
   鎬ニ地破レ 一ヶ所
   峯ニ割レ  一ヶ所
右二ヶ所之儀、古作候得共者、疵ニ相立不由候故、此儀分ヶ置申度、以添書如斯御座候、以上、
                  本阿彌
                   喜三次
 文化二年
   八月乙丑八月日
     西明院様
上杉謙信
上杉謙信が使っていたという伝説がある。江戸後期に高遠藩の儒学者・中村元恒がまとめた「蕗原拾葉(ふきはらしゅうよう)」に登場する。永禄4年(1561年)の川中島の戦いのいわゆる第四次合戦で謙信が使ったという。
謙信ハ當家ノ重寳五挺ノ槍トイフ內ノ第三番目ノ鍔槍ト名付タル槍ニテ自身手ヲ碎働後ニハ、重寶波平行安ノ長刀ニテ散々ニ働處ヘ、貝津壓ヘノ六備ノ內本庄越前守繁長大川駿河守討死ナリ、長尾遠江守藤景手ト字佐美駿河守手ト指相テ槍を入義信ヲ突崩ス是ニテ
武田太郎義信越後ノ陣ヘ御切入ノ時、謙信槍ニテ働被申候ト申傳候、其槍ハ上杉家ノ重寳五梃槍ノ中三番目鍔槍ト申槍ナリ。一說ニハ議信長刀ニテ働有之ト申、是ハ波平行安ノ長刀ニテ上杉家ノ重寳ナリ。
八月二十六日信玄川中島へ出テ九月十日迄小セリ合八度有之候ト承及候
恐らく甲陽軍鑑にも書かれる武田義信が活躍した場面では無いかと思われる。
大石主税
赤穂浪士の大石主税(大石良金、父が大石内蔵助)は波平行安(ただし後銘という)を持っていたという。「半丁庵随筆」という書物に登場する。幕府大番組竹川内記が大坂へ上る時、木曽街道の本山に古道具屋がありそこで野ざらしになっていた刀を二両で買った。その夜同僚にも見せて忠を確認すると「此度首途爲餞別贈一腰 大石主税殿、楫川本蔵源行國」と金象嵌で入っていたという。これは大石が江戸下向時に楫川が贈った刀だ、いや木曽山中にあるのはおかしいなどと議論になった。1年の大番を終えて江戸に帰り、御腰物方に頼んで研ぎ上げた所、実に見事な刀で与力の幸田彌五右衛門に話した所、幸田の知り合いに竹内八郎という人物がおり、松本近江守付きの与力で芸州生まれだという。彼がいうには、4代前以前は大石とは縁続きで、楫川というのも加古川という所にあり、本蔵は安芸守家来で大石内蔵助とは縁続きなので、本物であろうという事になった。そこで本阿弥に見せた所、波平行安は後銘で、関物であろう(あるいは長船勝光)という事になった。この話は当時話題になったらしく、「翁草」(神沢杜口)、「半日閑話」(大田南畝)、「海録」(山崎美成)などにも載っているという。
※ただし「義士佩刀覚書」によれば大石主税の佩刀は、刀 共国、長さ二尺二寸五分。脇差は広重、一尺一寸だという。また「江赤見聞記」によれば、刀 直國、長さ二尺一寸五分。脇差 広重、一尺だという。
※この刀については後日譚があり、大正4年(1915年)に長崎から東京の近藤周平氏のもとに送ってきたもの(本刀と村正短刀)を高瀬羽皐が購入し珍蔵した。それには刃長二尺九分、差表に波平行安と四字銘、裏に金象嵌で「此度首途爲餞別贈刀一腰 大石主税殿 楫川本蔵源行國」と記されていたという。楫川本蔵が加古川云々というのも、「仮​​名手本忠臣蔵」で加古川本蔵の娘が大石主税の許婚となっていることにヒントを得たのだろうという。

系譜

平安

橋口正国

  • 始祖
  • 大和の刀鍛冶で、良質の鉄を求めて諸国を放浪し、薩摩波平にて理想の土を見つけそこに落ち着いた。
  • 名前を波平行安と改名し、以降薩摩の地で刀を打ち続けることになったという。代々「波平行安」を名乗り、明治まで続いた。
  • 三条小鍛冶宗近が「橘宗近」と名乗っていた頃に、この橋口正国に師事したという伝承がある。

行安

  • 橋口正国の子。
  • 寛治ごろ

行安

  • 二代。

鎌倉

安行

  • 行安の子。正和ごろ。兼安ともいう。

波平家安(なみのひらいえやす)

  • 鎌倉ごろの作刀が重文指定を受けている。
太刀
銘「波平家安」長67.5cm、反り1.4cm。鎬造、庵棟、反浅く中鋒、鎬高く重ねやや厚め。鋩子は直ぐに小丸、先僅かに掃きかけごころがある。なかご生ぶ、先栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔2個。昭和30年(1955年)2月2日重要文化財指定。個人蔵

新刀

安張

  • 橘石見守入道壽庵
  • 文禄・慶長年中、太守(島津)義弘公に随し朝鮮国へ渡り、鍛刀したという。

大和守安行(やまとのかみやすゆき)

  • 江戸時代前期・薩摩国の刀工。波平安行。本名は橋口三郎兵衛。

  • 元和6年(1620年) - 元禄8年(1695年)

  • 平安期より薩摩国谿山郡で続く刀工波平派の57代。新刀波平の祖とされる56代安張の孫。

  • 安張に学んだ後、伊豆守正房の門下となる。

  • 波平派は代々大和伝での作刀を続けてきたが、安行は時の薩摩藩主島津家久に命ぜられ伊豆守正房の門下となり相州伝を学んだ。寛文5年(1665年)大和大掾、のち大和守を受領。

  • 文化2年(1805年)に山田浅右衛門により発表された懐宝剣尺の刀剣の業物一覧において大業物・良業物・業物混合60工のうちに挙げられている。

  • 安行には4人の息子がおり、四男安国が本家を継いだ。長男安休は祖父安張の跡を継ぎ坂ノ上で作刀し坂ノ上波平(嫡家)の祖となり、次男安正は分家して谷山・堀に住み堀の波平と呼ばれた。

  • 門人に一平安代の父・一平安貞がいる。

安正

  • 安行次男。
  • 橋口兵右衛門。元禄ごろ
  • はじめ安吉と打つ。

安国

  • 安行次男。
  • はじめ橋口四郎兵衛、のち三郎兵衛と称す。
  • 波平大和守安国と打つ。享保ごろ
    橋口四郎兵衛安行とも。別号を「平覚」。安元の子で父及び安周に学ぶ。波平安明、平覚波平安明など。

波平安常(なみのひらやすつね)

  • 江戸時代新刀期の刀工。

  • 本名:橋口四郎兵衛

  • 波平58代・安国の長男。本家を継ぎ波平59代となった。

  • 大和守安行と並び新刀波平を代表する刀工。

  • 初銘は「安和」、のち「波平安常」

  • 息子は波平60代行安。

波平安行

  • 安常の子
  • 橋口勘之丞と称す。初祖安行直系の波平六十代を称す。
  • はじめ安州、また安氏と打つ
  • 享和2年から「薩州波平安行」と打つ。
  • この系統は大和伝系を示す。

波平行周

  • 橋口四郎右衛門
  • 初銘「行高」のち「行安」
  • 行虎の長男で、文政3年(1820年)6月3日没67歳。

一平安貞

  • 山城守安貞

  • 本姓中村。

  • 慶安4年、薩摩国喜入(給黎)の刀工中村家、中村清貞の三男として生まれる。

  • のち57代の大和守安行に師事し、一字を拝領し安貞を名乗る。

  • 肝付氏の命により、玉置家を継いだ。

  • 宝永庚寅7年上京し山城守受領。

  • 「一平」は安貞の通称という。

  • 子に一平安代

一平安代(いっぺいやすよ)

  • 一平安代(いちのひらやすよ)、主馬首一平安代(しゅめのかみ いっぺいやすよ)

  • 江戸時代の薩摩国の刀工。新刀最上作にして大業物

  • 同じ薩摩の刀工である主水正正清(宮原正清、御紋正清)とともに、享保6年(1721年)、八代将軍徳川吉宗の命により江戸にて作刀、その出来のよさから茎に葵一葉紋を切ることを許される。その後主馬首を受領。

波平宣安

脇差
銘「波平宣安/文正二八月日」刃長一尺六寸一分、反り四分。

波平安次

銘「波平安次作」刃長二尺三寸七分、反り六分五厘。目釘孔2個、うち上を埋める。

波平家次

太刀
波平家次作。木曽義仲太刀と申傳。京都本山興正寺旧蔵。