江戸藩邸
江戸藩邸
- 江戸藩邸(えどはんてい)は、江戸時代に江戸に置かれた、各藩の藩邸(藩の屋敷)。
- 江戸藩邸は江戸城からの距離や機能により種類があり、「上屋敷」・「中屋敷」・「下屋敷」といった区分で分けられていた。また他に蔵屋敷を抱える藩もあった。
- 藩主が帰国する際は、留守居役が留守を預かった。なおこの項では、「藩」という用語についての是非は書かない。江戸時代には使われていなかったという指摘が近年あるが、実際に新井白石は甲府綱豊(後の6代将軍家宣)の命を受け「藩翰譜」を著している。書名は綱豊自身が選んだもので、”藩”は「まがき」「まもり」の意味である。家宣は死ぬまで同書を座右に置いたという。白石は何度も手を入れており、完成は将軍吉宗の代である享保元年(1716年)以降という。さらに文化2年(1805年)には「続藩翰譜」も編纂されている。
藩邸の種類
- 上屋敷
- 上屋敷は大名家当主とその家族が居住した。
- 江戸における藩の政治的機構が置かれた屋敷である。大名が居住するものは居屋敷(いやしき)とも呼ばれた。
- 大名は在府中、定例の登城日や役職に定められた日など、しばしば江戸城に登城する必要があったため、通常は最も江戸城に近い屋敷が上屋敷となった。
- 中屋敷
- 中屋敷は上屋敷の控えとして使用され、多くは隠居した主や成人した後継ぎの屋敷とされた。下屋敷と比較した場合、江戸城までの距離は近く、規模は小さいことが多い。
- 下屋敷
- 下屋敷は主に庭園など別邸としての役割が大きく、大半は江戸城から離れた郊外に置かれた。上屋敷や中屋敷と比較して規模は大きいものが多い。江戸市中はしばしば大火に見舞われたが、その際には大名が避難したり、復興までの仮屋敷としても使用された。藩により様々な用途に利用され、本国から送られる米や各種物資を貯蔵する蔵屋敷として、遊行や散策・接待のために作られた庭園として、あるいは菜園などとして転用される場合もあった。
- 蔵屋敷
- 蔵屋敷は年貢米や領内の特産物を収蔵した蔵を有する屋敷で収蔵品を販売するための機能を持つこともあった。主に海運による物流に対応するため、隅田川や江戸湾の沿岸部に多く建てられた。藩によっては下屋敷が蔵屋敷の機能を兼ねることもあった。
各藩の江戸藩邸
- 仙台伊達家の江戸藩邸
- 備前岡山池田家の江戸藩邸
- 加賀前田家の江戸藩邸
- 尾張徳川家の江戸藩邸
- 水戸徳川家の江戸藩邸
- 江戸藩邸
- 福井松平家の江戸藩邸
- 紀伊徳川家の江戸藩邸
- 美作津山藩松平家の江戸藩邸
- 肥後細川家の江戸藩邸
- 酒井雅楽頭家の江戸藩邸
- 鳥取池田家の江戸藩邸
諸藩の大坂蔵屋敷
- 主に西日本諸藩が、領内で穫れたお米を現金化するために大坂のコメ取引所に持ち込むために大坂に蔵屋敷を設けていた。
- 江戸時代延享4年(1747年)には、89の諸藩の蔵屋敷があったが、うち36が中之島に置かれた。残りは堂島、天満、土佐堀、江戸堀にあった。
※明治以後
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浜田藩蔵屋敷:通商司、中央公会堂西寄りの地
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長州藩 上田三郎兵衛屋敷:憲兵屯所、府立図書館の西部、豊国神社の東部
当時豊国神社(大阪)は大阪城に移転する前に、摂社として中之島に建立されていた。 -
宇和島藩蔵屋敷:大阪朝日新聞社
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福岡藩蔵屋敷:大阪倉庫株式会社(三井物産大阪支店、東神倉庫三井倉庫)
- 明治16年(1883年)鴻池一族により大阪倉庫株式会社を設立。
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秋月藩蔵屋敷:大阪共立銀行、新大阪ホテル
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鳥取藩蔵屋敷:浪華倉庫、大阪ビルヂング(現、大ビル。ダイビル株式会社)
- 元々は大阪商船が本社社屋新築のため、浪華倉庫の敷地2800坪を購入。
- その後、大正12年(1923年)に大阪商船株式会社が主導役となり、宇治川電気株式会社(現、関西電力)と日本電力株式会社が共同出資して株式会社大阪ビルヂングが創立された。
- 社屋・大坂ビルヂング(現、大ビル本館)は大正14年(1925年)に完成し営業を開始した。
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広島藩蔵屋敷:大阪医学校、大阪大学医学部
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明治2年(1869年)2月大阪久宝寺町の大福寺に文部省直轄の仮病院を開設。院長は緒方惟準。蘭医ボードウィン。
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明治3年(1870年)仮病院を大阪府に移管。府立病院および医学所となった。
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明治4年(1871年)文部省が再び大阪府立病院・大阪医学校を直轄とする。院長は高橋正純。蘭医はエルメレンス。
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明治5年(1872年)10月学制改革で大阪医学校および病院が廃止となってしまう。
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府下の有志が大阪府に請願して西本願寺掛所で仮病院の開設に着手。明治6年(1873年)2月に大阪府病院が開設。教授局を付設。
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明治12年(1879年)3月に大阪府病院は常安町に新築・移転となり、教授局も置かれた。※旧広島藩・今治藩の蔵屋敷跡
この「常安町」は淀屋常安に由来するという。「闕所」の項を参照。 -
明治13年(1880年)に教授局が府立大阪医学校と改称。明治21年(1888年)1月に大阪医学校と改められた。明治36年(1903年)19月に大阪府立高等医学校と改称。大正4年(1915年)10月府立大阪医科大学となった。
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正和6年(1317年)5月大阪帝国大学が設立され、大阪医科大学は医学部となり、理学部が創設された。
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昭和8年(1933年)3月大阪工業大学が加わり、大阪帝国大学工学部となった。
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大阪大学医学部の北側に「亀の松」と呼ばれる巨木があったが、その形がタコ(蛸)にニていたため「蛸の松」とも呼ばれた。これは慶長年間に広島藩主の福島正則が植えたものと伝えられ、浅野氏に代わった頃、毎年扶持米十石をあてて維持したという。明治期には大阪市が市費で維持していたが、明治44年(1911年)9月に枯折したという。これを薪として払い下げたが、二十八圓七十六銭であったという。
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久留米藩蔵屋敷:大阪師範学校(堂島小学校、大倉商業学校、大阪大学本部外)
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高松藩蔵屋敷:大阪高等工業学校、堂島米穀取引所正米部
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姫路藩蔵屋敷:大阪府収税部、大阪税務監督局、中之島税務署
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柳川藩蔵屋敷:住友倉庫、柳川倉庫
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丸亀藩蔵屋敷:第二盈進高等小学校、福島紡績株式会社
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熊本藩蔵屋敷:蓬莱社、大阪紙砂糖製造会社
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真島製紙所、下郷製紙所、中之島製紙株式会社
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明治8年(1875年)に蓬莱社(本来は商事会社)が製紙製糖工場を設立。これは明治6年(1873年)に蓬莱社が平野屋(百武)安兵衛より引き継いだ機械を元にした工場。その後転々としてこの機械は樺太へと移された。
蓬莱社は、明治6年(1873年)2月に征韓論で下野した後藤象二郎を中心に、士族、島田組や鴻池組など関西商人、上杉・蜂須賀ら旧大名の出資により設立された会社。金融・為替業および高島炭鉱経営の他、海運業、洋紙製紙業、近代的機械精糖業、神岡鉱山経営などと幅広く業務を手がけた。しかし経営不振により明治9年(1876年)で倒産した。 -
真島襄一郎が蓬萊社の大阪中之島工場の製紙・製糖業の一切を譲り受け、大阪紙砂糖製造所として経営するも、製糖業は失敗し、製紙業もやがて不振となり明治15年(1882年)以後経営者が変遷し紆余曲折を経て樺太工業に吸収され、昭和7年(1932年)に樺太工業も王子製紙 (初代)に吸収合併された。
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