名刀幻想辞典

城井兼光

城井兼光(きいかねみつ)


無銘
名物 城井兼光(松井兼光
長67.7cm、反り1.5cm
福岡市博物館所蔵

  • 享保名物帳で「松井兼光」と記載されるのがこの刀である

    城井兼光 長二尺二寸三分半 無銘 無代 松平筑前守殿
    黒田長政卿城井にて御手討被成大切れなり、總て昔より大切物と申傳ふ

    松井兼光 長二尺二寸三分半 無銘 無代 松平筑前守殿
    黒田長政卿城井にて御手討被成大切れなり、総て昔より大切物と申傳ふ

    大正2年(1913年)版では「城井兼光」とし、大正9年(1920年)の増補版では「松井兼光」とする。
  • 金二十枚折紙つき

  • 昔から非常によく切れた(大切物)と申し伝えられていたという。

  • 鎬造り、庵棟、大鋒

  • 棒樋の彫物、樋先やや下がる

  • 中心大磨上、先栗尻。目釘孔6個、うち4個を埋める

由来

  • 御当家有職故実

    備前兼光御刀 弐尺弐寸三分半 代金二十枚 別書一説三十五枚 松山兼定ともいふ
    長政公御指料御秘蔵にて常ニ御指被遊耳川にても此御刀なり 天正十六年豊前国中津御城ニ而城井中務鎮房を御切害被成候しは此御刀なり 委細御家譜に有之故略之 勝たる利刀なり 此後ハ城井兼光ともいひし也

  • 「松井兼光」(あるいは松山兼光)の由来は不明。

  • 天正16年(1588年)4月、黒田長政は城井鎮房(宇都宮鎮房)を中津城に招き、酒宴の席で謀殺する。また城下合元寺に留め置かれた家臣団も同じく黒田勢との斬り合いの末、全員が討ち取られた。

  • この時に使われたのが兼光で、以降黒田家では「城井兼光」と呼んだという。

    一、備前兼光御刀 二尺二寸三歩代金二十枚
    松山兼光とて、長政公御指料所々御陣中御指被成由
    天正十六年、豊前国にて城井中努鎮房を、中津御城にて御切害被成之も此御刀也、委細御家譜ニ有之故略之、勝れたる利刀也、此後城井兼光共言シとなり、甲斐守長興公被進之、今の甲斐守長重公ヨリ光之公江被進之

  • この「委細御家譜ニ有之」通り、細かな描写が「黒田家譜」に書かれている。

    長政かねて議定の如く肴と仰けるが、御聲次の間に聞えざりしか、何とかしたりけん、少猶豫しければ、長政ふたゝび太郎兵衛肴と高聲に仰ける。其時野村太郎兵衛あつとこたへて肴を持出、直に城井が前に行、三方を城井になげかけつゝとよりて一太刀うつ、城井が左の額より目の下迄切付る。機能心得たりとて盃を捨て、脇差を半分ぬきかけ、立あがらんとする所を、長政側におかれし刀をぬき、透間もなく打付らる。利劔にてつよく切られしにや、左の肩より兩乳の間をわり、後の大骨かけて、右の横腹まで切付られければ、さしもに猛き中務も、忽うつふしに成てぞ臥たりける。

    ただし刀工名は書かれていない。
    • なお「御当家有職故実」では「耳川にても此御刀なり」と書かれているが、こちらについては刀工名がはっきりと書かれている。しかし尺寸が異なっている。

      その中に強力なる敵一人、三尺ばかりの太刀を以て、長政の刀を打落して岸へ引あがりけるを、長政馬に聲をかけ、むながひとひとしき岸を急に乗りあげ、脇指を抜て和泉守兼定作、一尺七寸あり。切あひ、終に其敵を打取、長政右に打おとされ給ふ刀は、後家臣ども取りあげける、備前兼光の刀なり。

      つまり耳川の戦いで、長政は太刀を撃ち落とされてしまうが、1尺7寸兼定作の脇指でその敵と切り合い打倒したという。なお落とされた太刀は備前兼光(寸尺不明)だという。
  • 中津城下の合元寺(ごうがんじ)に控えていた城井家臣の家老・渡辺右京進らは、鎮房暗殺時にことごとく討死した。合元寺の門前の白壁には血痕が残り、何度塗り替えても血痕が浮き出るためついに赤壁に塗り替えたといわれる。合元寺は別名「赤壁寺」と呼ばれ、現在でも合元寺の門前の壁は赤色に塗られている。

来歴

  • どうも、元は井上之房が持っていたらしい。

       黒田長政印判状写
     追而、松山兼光之刀兎角此方へ可越候、以上
    一、周防所井上之房ニ在之松山兼光之刀切候而見申候て此方へ可越候、未切候而見不申候は、先々其方へ不置候、委久大夫口上ニ申聞事
    一、見かくしの石船ニのせ候時、人すくなく候て不成候ハヽ、福岡・博多町人并姪の浜早良郡百姓共ニ可申付候、右普請中兵粮を遣し可申候也
      卯月廿九日   長政御印判
               菅 和泉守殿
    (「福岡県史 近世史料編」)

       黒田長政印判状写
      追而、枩山兼光之刀兎角此方へ可越候、以上
     小河久大夫政良下候間、申遣候
    一、周防守所井上之房ニ在之枩山兼光之刀、切候而見申候て、此方へ可越候、未切候而見不申候は、先々其方可置候、委久大夫口上ニ申聞候事
    (※中略)
    (以下欠落)
    (「福岡県史 近世史料編」)

    井上之房(いのうえ ゆきふさ)は通称:弥太郎、九郎右衛門、九郎左衛門。黒田八虎、黒田二十四騎。初名は政国を名乗り、黒田職隆に小姓として仕える。天正6年(1578年)、黒田孝高が荒木村重により有岡城に幽閉された際には、栗山利安・母里友信と共に有岡城下に潜伏し、孝高の安否を探っている。天正13年(1585年)に職隆が没した後は、その遺命により孝高に重臣として召し抱えられた。天正16年(1588年)に6,000石。筑前国への移封の際に豊前国小倉の近くに黒崎城を築き、1万6,000石を領した。慶長12年(1607年)、長政の使いとして徳川秀忠・家光に拝謁して馬を賜った後、「周防守」を称する。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では長政の嫡男・黒田忠之に従って従軍。元和元年(1615年)、一国一城令の発令に伴い黒崎城を破却。元和9年(1623年)、1万3,000石を孫の正友に譲り、隠居・剃髪して半斎道柏と名乗った。息子・井上庸名(もちな)は黒田長政の長女・菊と婚姻。2代将軍・徳川秀忠に仕えて慶長15年(1610年)に5,000石取の旗本となり、従五位下・淡路守に叙任された。之房の実弟の家系は後に福岡藩士に召抱えられ、筑前に戻っている。
    この黒崎城は筑前国と豊前の国境の最前線(豊前・細川忠興と筑前・黒田長政は仲が悪かったと伝わる)にあった城で、現在は北九州市八幡西区屋敷1丁目にある。ブラタモリ♯249で訪れていた。
    一通目の宛名の「菅和泉守」は、菅正利。南山刀を所持した人物。
    • 持ち主が「周防(守)」になっており、自称でなく叙任後であれば慶長12年(1607年)以降の話となる。とすると吉田家伝録などにいう「天正16年(1588年)に城井鎮房を誅滅した際に長政が兼光の刀を使用した」という逸話との若干のズレを感じるがどうなのだろうか。

      しかも同書ではそれを介助した野村太郎兵衛裕勝(黒田二十四騎・母里多兵衛の異母弟)が使った”短刀”は、野村太郎兵衛裕明の家に伝わっているとまで書かれている。長々と書かれているのをまとめると、その短刀は、野村裕勝の兄の毛利友信(母里太兵衛)の娘婿である桐山丹波信行へと伝わり、のち野村裕明の時に桐山作兵衛丹英に請うて貰い受けたという。長一尺七寸、中心両面に金象嵌。「雲門露」/「曽我大隅所持」という。曽我大隅とは野村裕勝の父という。雲門露(うんもんのつゆ)は禅語。
    • 実際黒田長政が筑前50万石へと加増転封されたのは慶長6年(1601年)の関ヶ原の後であるし、文書にもあるように「見かくしの石」を運ぶために、福岡・博多町人や姪の浜の百姓共を使えとも言っている。

    • 矛盾なく考えるのであれば城井氏を誅殺したときには井上之房の所持刀で、福岡に移ってから召し上げたということになるがよくわからない。でなければ、文書で「切候而見申候て此方へ可越候、未切候而見不申候は、先々其方へ不置候」などと言っているのはおかしい話になる。そう考えれば、”城井鎮房を殺害した兼光”と”松山兼光”は本来別で、この後に入れ替わったという可能性も考えられなくはない。


  • 御当家有職故実

    長政公より甲斐守長興公へ被進、今の甲斐守長重公より光之公へ被進之

  • 黒田長政はこの兼光を三男で初代秋月藩主の黒田長興へ与えたが、その子長重が3代福岡藩主黒田光之へ返還している。

                                        悦子(伊達宗景正室)
                                        富貴子(黒田長重正室)
                                        筑姫(酒井忠挙正室)
    黒田官兵衛孝高─┬黒田長政─┬菊子(井上庸名室)            黒田左兵衛
            熊之助                       黒田長清【筑前直方藩】
                  【筑前福岡藩】              黒田綱政(東蓮寺藩→福岡藩4代)
                  黒田忠之(2代)──┬黒田光之(3代)──┴黒田綱之(廃嫡)
                            黒田之勝(→東蓮寺藩)
                  
                  (榊原忠次室)
                  
                  【筑前秋月藩】
                  黒田長興(甲斐守)─┬犬万(夭折)
                            黒田長重(甲斐守)
                            彦子(藤堂高通正室)
                            さん(小笠原長祐正室)
                            (小笠原真方正室)
                            勝子(三奈木黒田一貫室、黒田長貞の祖母)
                  
                  【筑前東蓮寺藩】
                  黒田高政(薩摩守)━━黒田之勝(忠之次男)
                  
                  亀子(池田輝興室)
                  黒田甚四郎政冬(早逝)
    黒田長興の母は栄姫。慶長15年(1610年)生まれ。寛文5年(1665年)江戸藩邸にて56歳で死去。長政は、一時期嫡男忠之ではなく長興への家督相続を考えていたため、忠之との仲は悪かったという。子の長重の母は佐竹義隆の娘亀子(法流院)。すでに宗家も光之に代わっていたこともあって宗家とは和解しており、正室にも光之の娘富貴子(勝真院)を迎えている。
  • 元禄2年(1689年)の折紙が附く。

    備前国兼光 正真 長サ弐尺弐寸参分半 表裏樋磨上無銘也 代金子弐拾枚 元禄弐年五月三日 本阿(花押)

  • 継高記 ※享保12年(1727年)、継高25歳時。

    是より先江戸に於て、御腰者方宮家彌一郎、當家の留守居を呼、黑田家に傳る岩切と言刀、上様聞召及ハせられ(中略)、外に城井兼光碇切安宅切・壓切(へし切)と云刀所持せらるゝ由を申出ける。其後彌一郎より謂れ書を見度よし申されける故、十一月二十七日書付を彌一郎の許に出しける。
     
        覺
    一、備前兼光 貳尺貳寸三歩
     松山兼光と申(略)   ※「松井兼光(城井兼光)」だと思われ
     
    一、碇切 作不知 壹尺九寸壹歩
     (略)
     
    一、安宅切 祐定 貳尺貳歩
     天正九年十一月、黑田勘解由孝高、阿波ゟ淡路え渡海、三好之一族安宅河内守居城由良の城を攻、安宅沒落候由、安宅河内守世ニ聞え候剛强之勇士ニ而候を、勘解由孝高自身討取たる刀ニ而候故、安宅切と名付置候事
     
    一、壓切 長谷部 貳尺壹寸四歩
    信長公或時クハンナイと言茶道坊主を手打にし給ふ。臺所へ逃膳棚之下ニかゝミ候を、振上切給ふ事難成、さし入れてへしつけ給ふに、手に覺えす切落し給ふ。是よりへし切と稱らる。信長公より黑田勘解由孝高へ被下、于今持傳候事
    (新訂黒田家譜)

    黒田継高は筑前福岡藩の第6代藩主。藩祖如水、初代長政の血統で最後の福岡藩主となった。養父の黒田宣政は享保4年(1719年)11月22日、致仕し、家督を継高に譲った。
  • 現在は福岡県立博物館で所蔵。

  • 合元寺HP ※2015年3月確認