薄雲
薄雲
- 薄雲
各代薄雲
- 忍頂寺務の「清元研究」(昭和五年)の「各代薄雲」に整理されている。なお忍頂寺務(1886-1951)は「近世歌謡研究家。近世歌謡・洒落本を中心とする氏のコレクションは、その死後昭和29年(1954年)大阪大学付属図書館に寄贈された。忍頂寺文庫 | 大阪大学附属図書館
なお「忍頂寺」という姓は本名で、忍頂寺という寺に由来する。「評伝・忍頂寺務」(福田安典、2012)によれば、高野山真言宗の忍頂寺はかつて摂津にあり勅願寺として開かれた。仁和寺の末寺として栄え、南北朝期には重要な軍事拠点となった。織田信長の摂津平定時に守護不入を安堵されるも、高山右近により荒廃させられたという。のち一族は淡路志筑に移り、忍頂寺家を名乗ったという。なお忍頂寺は「にんちょうじ」と読まれるが、これは誤りで、先祖は二條家とされ、かつて忍常寺と読まれた例もあり、淡路で一族が建立した「引摂寺(いんじょうじ)」、かつ遺族も「にんじょうじ」を名乗っていることから、「にんじょうじ」が正しいとされる。
「近世風俗文化学の形成」成果報告
初代 万治薄雲
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万治二代目高尾とともに高名。万治元年(1658年)吉原細見に名が載るが、万治3年(1660年)細見には載らない。忍頂寺務の「清元研究」では「高尾追々考」を引いて次のように述べる。
萬治元年新好原細見圖
三浦家四郎左衛門、太夫高尾、太夫薄雲
同太夫薄雲は、高尾歿後、伊達侯の身請したまふ薄雲なるべし、かかれば萬治二年の十二月の末か、同三年の春かなるべし。
伊達侯の身請は疑はしいが、「吉原鑑」に名前が無いから、萬治三年には退廓して居たとも見られる。京傳の「近世奇跡考」によれば、「萬治年間の名妓高尾は、下野國鹽原鹽釜村の算也(略)おなし頃、高尾とさかりをあらそひし三浦の薄雲は、信州埴科郡鼠宿の算也」
(清元研究)
2代 寛文薄雲
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寛文7年(1667年)の正月から出たという。
うすぐも、紋處は枝のついた二輪の花京町、三浦うち。
此きみは、此ひつじの元日より出給ふ、水上は市左衛門後家所にて、たかおのきみの引たてなり。御ぜんせいのゆくすゑ、たのもし々々
ここをだにうすくもみへぬさけぶりの ちはやきてのあつくあらなん- 紋は枝のついた二輪の花という。
3代 天和貞享薄雲
- 「洞房語園集」に天和3年(1683年)の詩が載る
薄雲吹佛戀風頬 雲雨巫山在我辰
太掖芙蓉何足比 夫君容色勝於珉 - 貞享4年(1687年)の「源氏五十四君」
薄雲、京町、三浦家四郎左衛門内
正月三日うつくしさ又なく、楊柳の風にうつらふ抔といふほめやうにてなし。めんてい中、手せきよし、勿論りはつ、きりやうより位あり。太夫に四の徳そなはり、格子に三の義ありと、世々の阿呆の申傳え侍れど、情の徳にいたらぬ君と云へり。さればこそ何れふかまと聞たるなし、かろからぬてきを花紫に奪はれたる由、専ら正月の沙汰也 - 貞享元年(1684年)井原西鶴「好色二代男」
此里の事は、皆偽かと思へば、折ふしは眞實も降りけり、時雨も始の薄雲ほど情深きは無し。(中略)紫立ちたる曙は、薄雲様の御迎に、御紋付の傘、角助がさし掛け、肩で風切つて散らしぬる粧は、玉雨枝無き白梅落つと、詩人などの詠むべき所なり、角内が背中に乗移り給ふありさまは如来善光に負れ、御身よりの光、居間の玉蟲色の御小袖(中略)難有くも簾越に、茶屋より拝み、奉り、知音の人聲を懸くれば、泰に見返り、まめかへ、後にへ、と少し訛のある二聲を聞く人感に堪へて(中略)後姿まで見送るは、揚屋町の名残ぞかし。
4代 元禄薄雲
- 猫(三毛猫という)を寵愛していたことで有名。宝暦7年(1757年)の「近世江都著聞集」を引く。ふくよかな姿で描かれているという。また元禄13年(1700年)7月、三百五拾両の身うけ証文が残ることでも知られる。
晋其角の句に「京町の猫通ひけり揚屋町といふ句そのことわけを知らげしてハ解しがたくおもひしがこの頃江戸著聞集を見しに元禄の頃吉原町の遊女専らもて遊び道中にもたせ揚屋入することはやりたるを風雅にいひつゞりたるなり。猫を抱かせ道中せし根元ハ、京町の三浦屋四郎左衛門抱に薄雲といふ遊女あり。(中略)是は元禄七八の頃より十二三年へ渡る三代薄雲と呼し女也。此薄雲平生に三毛の子猫のかはゆらしきに、緋縮緬の首玉を入、金の鈴を付け、是を寵愛しければ其頃人々の口ずさみけると也
薄雲の寵愛する猫が、蛇を食殺したる話を記し「吉原大鑑」天保十年にも、同一の話を載せて居る。「寸錦雑鐵」には、元禄十三年四月、鳥居清信の畫本と云ふを模写する中に、薄雲の絵が有るが、かなり肥満した人で有つたやうだ。「花街漫録」にも、菱川師宣薄雲の絵と云ふが載つて居る。三代薄雲かと思ふが、肥えた處だけは、此の「寸錦雑鐵」の像に似て居るのも妙だ。四代薄雲は、元禄十三年七月退廓したと云はれ、有名なる身請證文が残つて居た。證文之事 文字楼蔵
一 其方抱之薄雲と申けいせい 未年季之内ニ御座候ヘ共
我等妻に致度色々申候所に無相違妻被下 其上
衣類夜著蒲團手道具長持迄相添被下
忝存候 則為樽代金子三百五拾兩 其方へ進申候
自今已後 御公儀様ゟ 御法度被爲仰付 候
江戸御町中ばいた遊女出合御座鋪者不及申ニ
道中茶屋はたごやへ左様成遊女がましき所ニ指
置申間敷候 若左様之遊女所ニ指置申候と申もの
御座候はゞ 御公儀様江被上仰 如何様ニも御懸り可被
成候 其時一言之義申間敷候 右之薄雲 若離別
致候はゞ 金子百兩ニ家屋鋪相添 隙出シ可申候
爲後日仍證文如件
元禄十三年辰ノ七月三日
貰主 源六
請人 平右衛門
同 半四郎
四郎左衛門殿
5代 宝永薄雲
- 柳亭種彦の「高尾年代記」によれば元禄14年(1701年)頃に出たという。「傾城色三味線」は元禄14年(1701年)刊とされており、そうであればこの退廓は前代(4代薄雲)のことという。
奥村政信筆吉原遊女の姿繪の折本あり、遊女の數二十人、第一に春日野、卷尾、薄雲、第六に高尾、奧書に正徳元年と記す。或人の話に、此年號は後に彫改めし也、原板には、元禄十四歳辛巳とありと云々。
寶永二年開板、細見、三浦四郎左衞門内、太夫、小紫、高尾、薄雲。
(加藤)雀庵の『高尾追々考』によれば、『色三昧線』江戸の卷、寶永三年也、
吉原女郎總名よせ、▲太夫の部、
○京町、三浦四郎左衞門内、
一、太夫たかを、去秋身請、 一、太夫うすぐも、去秋身請、 一、太夫こむらさき、以上三人。
此の『色三昧線』は元禄十四年の作とも稱せらるる故、或は前の薄雲の退廊を指すか。『丸鑑』の記事によれば、故有りて太夫の位を下されたこの事で有る。
6代 正徳薄雲
- 禿は"かくや"。
『吉原大黒舞』(寶永六年)には、未だ薄雲の記事が無い、其後の『ゑにし染』(正徳三年)には、左の通り載つて居る。
『三浦四郎左衞門内(紋所)巴、うす雲(禿かくや引て)
戀すてふ君と思ひて朝ごゝに、
立出て見るうす雲の空。
右五君高尾・金山・薄雲小柴・逢夜の五人物之無堪比倫、綴小律聊述其大概而已。
高雄紅葉吾妻紫、 金玉満山堪買妍、
雲鬟花顔描無筆、 逢宵一刻價何千。
雀庵の『高尾追々考』に曰く。
『享保二年印本、「傾城手管三味線」、此書に揚屋敷、十四軒有り。江戸町吉原女郎總名よせ、▲太夫の部、京町、三浦四郎左衞門内、
一、太夫高尾、 一、太夫きん山、
一、太夫うす雲、 一、太夫小むらさき。
此人も何かの事情にて、空蟬と名を替へたさ、『丸鑑』に記載して有る。
7代 享保薄雲
- 享保2年(1717年)以前に太夫。享保6年(1721年)に死んだという。以後、薄雲名跡は寛保元年(1741年)まで絶えたという。
『吉原丸鑑』によれば、享保二年七月より太夫に成つたと有る。同書に、
『此きみは、前のみはな、花月良心信女のゆかりにして、そのかみに高き松風とさこえし御かたにつきそい、をさな名ははやのすけと申侍りし、松風身うけありて後、みはなのきみにかいほうせられ給ひしが享保二年酉の四月、みはなむなしく成りたまふにより、其後は高尾のきみのもとにをはして、姉妹のけいやくあり、同年七月十五日水あげして、太夫のくらゐにのぼりたまふ、そもそももすぐもと申は、明暦年中うすぐも濃紫とて名君あり、そのころの高尾と全盛位をともにして、をしもをされもせぬきこゑ世上あまねく、是を稱して三浦の三美人と申せしかや、爾しよりこのかた三浦が家にして、うす雲濃紫を高尾にならべて、代々太夫のとをり名とす、しかるに元禄年中うすくもと申せし太夫、ゆへありて位ををろされ、それよりつづきてうす雲と名のりたまひしきみ、是もすこしのさわりありて、空蟬と名をかへ給ふ、それより後は此君を繼ばどの君なく、しばし打たへたるところに、此度この君たへたるを繼、すたれたるを興したまふべききりやうありとて、うす雲の名題をつぎて、わか木の太夫と成り給ひぬ、御よはひは今年いまだ二八になりたまはねば、たとへば春のはつざくら、ひらきかかれる花のふぜい、さかりの色をまつちやま、山々跡より申べし。
此の薄雲は、享保六年に死んだと見えて、『江戸見草』(小寺玉兎・天保十二年)に左の記事あり。
『西方寺……過古帳順にくりかへし見しに、春應妙藏、三浦屋ウス雲、享保六辛丑歳、月日寫さざるは殘念なり。』
享保七年、同十三年の細見、同十五年『兩巴巵言』、共に薄雲無し、此後暫時中絶したと思はれる。
8代 寛保薄雲
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最後の薄雲。元文2年(1737年)元文4年(1739年)のいずれも記載無く、寛保元年(1741年)に出たという。禿は"ふたば"と"みどり"が付いていた。
『吉原源氏六十帖』元文二年細見『春の曙』元文四年共に薄雲なし、寛保元年に出來たるか、種彦は次の説を記す。
『寛保元年細見記「鶯の思羽」、
京町一丁目三浦四郎左衞門。
太夫高尾かいでわかば太夫うす雲。ふたばみどり
寛保二年細見記「里鹿子」
太夫高尾無し明てあり太夫うす雲ふたばみどり
如此高尾の名闕て無し、前年寛保元六月身請と先達の説なり、豫按に、元文五年より此身請の沙汰ありし故、くつは四郎左衞門太夫の絶ん事を思ひ、さるべき遊女を見たて、薄雲の名を繼がせしなるべし。
此の薄雲の名は、『初清搔』寛保二年『虎が文』延享三年『里の家名記』享延五年 ※ママ。延享『丸山土産』寛延三年に見るが、寶暦初年に無くなつたと思はれる。雀庵によれば、『媒床山』暦延三年七月には、太夫としては玉屋花紫以外に無つたと云ふ。私は未だ此細見を見ないが、此れが恐らく最後の薄雲で有らう、三浦の家も寶暦に入つては著しく衰頽し、寶暦七年には遂に退轉して終つた。 -
忍頂寺務の「清元研究」補遺
飯島花月氏來信に、
京傳の奇跡考及び骨董集にのせらるゝ薄雲裲襠の切れ、丸つなぎ模様の打敷は、今以て長野縣埴科郡南條村宇鼠耕雲寺(上田より約二里)の什寶と成つてゐる。此薄雲は同村玉井氏の出にて、天野政徳隨筆に共傳あり。この萬治薄雲と猫を愛した元禄薄雲とは、川柳などにはいろ/\混同して傳へられるやうである。川柳に薄雲をよめる句、私の抄出せしだけにて四十程あり、仙臺侯に請出されし事と、猫を愛せし事とを主材としてよみたる類句だらけにて、特殊なる發見も無い。又萬治高尾から薄雲に傳へ、薄雲死後裲襠と共に郷里へ贈りたりと傳へらるゝ鬢水入れの漆器一個は、私の親類の西島家に傳へて今も所藏してゐる。飯島花月は飯島保作。耕雲寺は長野県埴科郡坂城町南条1077。