名刀幻想辞典

三浦屋

三浦屋は吉原の大籬(大見世)の屋号

三浦屋

  • 三浦家宗家の主人は四郎左衛門という。
  • 三浦家は、高尾薄雲、濃紫、助六の揚巻などの名跡があったという。

初代

  • 初代は通称四郎左衛門。初名は九郎右衛門と名乗ったともいう。

  • 元は武士だったが浪人して傾城屋となり、元吉原開基以前から参画したという。ただし元吉原ではどこにあったかも不明。

    三浦屋の先祖は、武家より出で、浪人の後娼家となり、萬治以来盛なりし事、世々の細見にも見えたり、今猶榧寺に巍然たる墓ありて、本堂には夫婦元禄中の木像も残れるを見ても、家の榮へし事知られたり京山高尾考

  • 吉原では京町一丁目、仲の町より右側の角に見世を構えた。

    京町一丁目、三浦家四郎左衛門、寛文の頃は道安と云、元吉原よりの舊家なり京伝大盡舞考証

    三浦屋があげひさしとて、二重ひさしの家作り、わけある事のよし

  • 初代は隠居後に道安を名乗ったともいう。

    道安とは三浦屋の隠居也吉原雑話

    高尾の前に、新町ほうじゆん内、せんじゆ有りて同じ内と記したれば、當時の高尾は、芳順の家に有りし歟、芳順世に三浦隠居と云ふ種彦高尾年代記

    山本芳順、新町右側、山本助左衛門、剃髪して芳順と云ふ京伝大盡舞考証

寛永頃

  • 三浦一党で見世を開いていたらしく、寛永初年の「傾城真色三味線」では下記のように記す。

    三浦四郎左衛門、太夫二人、格子二十九人
    三浦孫三郎、  太夫一人、格子二十七人
    三浦馬之助、  散茶二十五人
    三浦六左衛門、 同十一人
    三浦や仁左衛門、梅茶八人

  • また享保17年(1732年)「新吉原の絵図」では下記のように記す。

    三浦四郎左衛門 太夫一人、格子一人、〽️四人、無印十九人
    三浦孫三郎  〽️五人、無印十一人
    三浦源八郎 太夫一人、格子十一人、〽️二人、∧三人、無印十三人

  • 三浦屋三軒は宝暦初年まであったが、宝暦に入って以降四郎左衛門の一軒だけになったという。

    雀庵の「高尾追々考」に、寶暦二年七月「媒床山をとこやま」、三浦四郎左衞門は、明暦四年元吉原より此新吉原に移りて、京町一丁目右側の角屋敷に住つきてより、此年迄九十五年更に動かざりしを、此年此細見に左側に移りたり、その移りたる家は、出店三浦三郎が跡にして、三浦が家の衰へ……此細見に見え寂しう哀なり、
     
    吉原廓内の事務を扱ふ爲めに、會所くわいしよと云ふのが出来て、三浦四郎左衞門が廓名主くるわなぬしとして會所を支配し、手代四郎兵衞をして實務に當らしめた。……名妓高尾を以て知られ、吉原隨一の大樓と云はれた三浦屋は高尾九代にして實に寛保年間絶えた。」日本花柳史
    「寶暦六年に三浦屋の家絶たり、「世事百談」に、寶暦八年に三浦屋の家絶たり」柳生通誌
     
    從來三浦屋の廓内から退轉した年を、寶暦六年として居た、之れは「奇談考」に記された説で、雀庵も此説を支持して居るが、其根拠として掲げられた細見「花橘はなたちばな」は、宝暦七丁丑の出板で無くて、一年後の宝暦八年春のもので有る、從て其結論に間違を生じた。私の所見の細見で、宝暦七年春の「並嬉なみき太夫まつ」には、三浦屋はまだ残つて居るから、三浦屋の退転は宝暦七年中と見るのが妥当で有る。