太郎坊兼光


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 太郎坊兼光(たろうぼうかねみつ)


兼光
二尺三寸

 由来

  • 「太郎坊」と名づけたのは秀吉で、恐らく愛宕山に祀られている「愛宕太郎坊天狗」から名づけたと思われる。

 来歴

 織田信長明智光秀

 秀吉

  • 光秀が愛宕山に奉納したのを、秀吉が他の刀を納めた代わりにこれを取出し、「太郎坊」と名づけている。
  • 一時的に秀次が拝領していたとされる。秀吉薨去時に形見分けされていることから、秀次の死後に秀吉に戻ったとみられる。

 青木一矩

  • 秀吉没後、形見分けで越前福井城主であった越府侍従青木一矩が拝領した。

    越府侍従(青木一矩) 太郎坊兼光

  • 関ヶ原では青木一矩は西軍に属し、本刀も召し上げられる。

 加藤嘉明

  • 加藤嘉明は関ヶ原の戦功により伊予松山で20万石を領していたが、慶長7年(1602年)に家康から本刀を拝領している。

    七年伏見にをいて關原の戦功を賞せられ、かつて關白秀次の帯せし太郎坊と名づけし名刀を賜ひ

 丹羽長重

  • さらに後、加藤嘉明から丹羽長重に渡るときの逸話が残されている。つまり寛永4年(1627年)~寛永8年(1631年)までの間の逸話となる。
  1. 寛永4年(1627年)1月4日:会津60万石の蒲生忠郷が嗣子なく早世。弟の蒲生忠知は伊予松山24万石へ
  2. 同年:加藤嘉明が伊予松山から会津40万石で転封
  3. 同年:丹羽長重が陸奥棚倉5万石から白河10万石で転封
  4. 寛永8年(1631年)9月12日:加藤嘉明没。明成が継ぐ
  5. 寛永14年(1637年)閏3月6日:丹羽長重没。光重が継ぐ
  6. 寛永20年(1643年)7月4日:丹羽光重、陸奥二本松へ移封
  • ただし伝本によっては、長重ではなくその子の丹羽光重であるとする。とすると、この逸話は寛永14年(1637年)以降のこととなる。

    加藤左馬介(嘉明)殿は御逝去御息式部大輔(明成)殿御代になり光重様を御振舞被成御相伴大勢御出の内に石川大隅守殿も御出候

  • 会津の蒲生氏郷の孫忠郷が嗣子なく伊予松山へ24万石に減封された後には、加藤嘉明が会津40万石、丹羽長重が白河10万7千石をそれぞれ領し入部した。二人はかねてから仲がよく、丹羽長重は嘉明の会津若松まで遊びに訪れたという。
  • 酒宴を催して酒が進んだ折に、酔っ払った嘉明が「こたびの来訪誠にありがたい。せめてもの御礼に秘蔵の道具を進上すべし」といってこの太郎坊兼光を持ってこさせ、「これは関が原の戦い折、家康公より拝領した名刀である」として手ずから贈ってしまった。

    左馬助満足大形ならず。酒宴刻を移し「此度の御来臨全く謝する処を知ず。責ての事に某秘蔵の道具を進すべし」とて、太郎坊の刀を取出させ「是は関ヶ原合戦の時軍功の賞と有て、家康公より下されし備前兼光の名刀也」とて、五郎左衛門へ贈り申され候。

  • 長重は厚く礼を述べ、何を思ったかその日すぐに会津若松を立って白河へ戻ってしまったという。

    然して長重其日則若松を立て白河へ帰城也。

  • 翌日になって酔いが覚めた加藤嘉明が、近習に「昨日酒の興に乗じて太郎坊を丹羽に贈ったように覚えているが、まことか?」と尋ねると「御意の通り進上せられました」と答える。嘉明はすっかり醒めてしまい、「俺は泥酔して前後不覚の上でのことならば、例え太郎坊を差し出せといったところで、別の刀を差し出すべきだろう。秘蔵第一の道具を渡してしまったのは是非なき次第である。急ぎ取り返すべし」と、白河へと早馬を立てさせ、返却方を申入れさせた。
  • しかし長重は「重宝の賜りものなれど返すことはできない」といって取り合わなかったという。

    翌日嘉明近臣を招て「昨日酒宴に長ずるの余、太郎坊の刀を五郎左衛門へつかはしたる様に覚しが、其通か」と尋らる。「勿論」の由答ければ、左馬助興を俙し「我酔って忘却し謂付し儀なれば、汝等指心得、何なりとも太郎坊と号し持出て然るべきに、秘蔵の道具を人手に渡し、是非もなき次第也。急とり戻すべし」とて、俄に早飛脚を申付「件の刀は重宝の第一也。酔狂の上にて進らせたるも必定なれば、返し賜るべし。代には何れなりとも御望に任せ、それより宜敷道具を贈り進らすべし」と、諄々申送られけれども、長重同心なく竟に返されざりしとぞ。

 丹羽家代々

  • のち丹羽家伝来。

 売立

  • 昭和5年(1930年)11月23日、東京美術倶楽部の売立で、781円で落札。
  • その後行方不明。




 太郎坊兼光

川越城松平家伝来

  • 武蔵川越藩の松平家伝来の太郎坊兼光。
  • 明治維新後も同家に伝来したが、由来は不明。

 愛宕太郎坊天狗(あたごたろうぼうてんぐ)

愛宕山に棲むとされる大天狗
四十八天狗、日本八天狗
愛宕山太郎坊

  • 愛宕山に天狗がいるという話は古来伝わるが、その固有名を”太郎坊”であるとする文献が残るのは12世紀頃からである。
    愛宕山の天狗が「太郎」とされた所以は不明だが、物事の起こりや代表的な物事に対して太郎の名を冠することは、この時代よく行われている。例として「坂東太郎」=利根川、「太郎月」=正月の異称など。愛宕山の天狗は古来有名であったため、その天狗に太郎の名がつけられたとされる。
  • 初出は、「源平盛衰記」の法皇三井灌頂事において後白河法皇と住吉明神の問答が語られる中で登場する部分とされ、ここでは柿本の紀僧正が大法慢を起こして大天狗になったもので、これを”愛宕山の太郎坊”と呼ぶとする。

    法皇三井灌頂事
    中比我朝に柿本の紀僧正と聞えしは、弘法大師の入室灑瓶の弟子、瑜伽灌頂の補処、智徳秀一にして験徳無双聖たりき。大法慢を起して、日本第一の大天狗と成て候き。此を愛宕山の太郎坊と申也。惣じて驕慢の人多が故に、随分の天狗と成て、六十余州の山峯に、或は二三十人、或は五十百二百人集らざる処候はずと。
    (源平盛衰記)

  • また検非違使の日誌である「清獬眼抄」では、治承2年(1178年)に山城で起こった大火を、その前年である安元3年(1177年)に起こった大火「太郎焼亡」に倣って世人が「二郎焼亡(次郎焼亡)」と呼んでいると報告している。

    七条北東洞院東中許洞院南焼亡。(略)世人號二次郎焼亡一也。太郎去年四月廿八日至二于大極殿一焼亡云云
    (清獬眼抄)

 四十八天狗

  • 江戸時代中期に書かれた「天狗経」に名が挙げられる大天狗。

    南無大天狗小天狗十二天狗有摩那天狗数万騎天狗、先づ大天狗には、
    愛宕山太郎坊、妙義山日光坊、比良山次郎坊、常陸筑波法印、鞍馬山僧正坊、英彦山豊前坊、比叡山法性坊、大原住吉剣坊、横川覚海坊、越中立山縄乗坊、富士山陀羅尼坊、天岩船檀特坊、日光山東光坊、奈良大久杉坂坊、羽黒山金光坊、熊野大峰菊丈坊、吉野皆杉小桜坊、天満山三尺坊、那智滝本前鬼坊、厳島三鬼坊、高野山高林坊、白髪山高積坊、新田山佐徳坊、秋葉山三尺坊、鬼界ヶ島伽藍坊、高雄内供奉、板遠山頓鈍坊、飯綱三郎、宰府高桓高森坊、上野妙義坊、長門普明鬼宿坊、肥後阿闍梨、都度沖普賢坊、葛城高天坊、黒眷属金比羅坊、白峰相模坊、日向尾股新蔵坊、高良山筑後坊、医王島光徳坊、象頭山金剛坊、紫尾山利久坊、笠置山大僧正、伯耆大山清光坊、妙高山足立坊、石鎚山法起坊、御嶽山六石坊、如意ヶ岳薬師坊、浅間ヶ岳金平坊
    総じて十二万五千五百、所々の天狗来臨影向、悪魔退散諸願成就、悉地円満随念擁護、怨敵降伏一切成就の加持、をんあろまや、てんぐすまんきそわか、をんひらひらけん、ひらけんのうそわか

 日本八天狗

日本八大天狗、八天狗

  • 一般に次の八山に棲むとされる。
  1. 愛宕山太郎坊
  2. 比良山次郎坊
  3. 飯綱三郎
  4. 鞍馬山僧正坊
  5. 相模大山伯耆坊
  6. 英彦山豊前坊
  7. 大峰山前鬼坊
    ・大峰山の前鬼・後鬼は役小角が従えていたとされる夫婦の鬼とされる。
  8. 白峰山相模坊
  • 石鎚山法起坊を加えることもある。
  • 白峰山相模坊及び相模大山伯耆坊、伯耆大山清光坊の関連
    • 元は相模大山に棲んでいた相模坊は、保元の乱ののち讃岐に配流となり同地で憤死したとされる崇徳上皇を慰霊するため、讃岐白峰山へと移ったという。
    • その後主のいなくなった相模大山には伯耆大山に棲んでいたとされる伯耆坊が移り、さらにその伯耆大山には清光坊という天狗が棲んでいるという。
  • この日本八天狗については初出や出典が明らかではないが、江戸時代に刊行された「誹風柳多留」に八天狗を詠み込んだ川柳が登場している。

    盆山は宿屋の下女も八天狗


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