浅野長晟


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浅野長晟(あさの ながあきら)  

江戸時代の大名
浅野氏宗家2代
備中足守藩主、紀伊和歌山藩2代藩主、安芸広島藩初代藩主
従五位下・右兵衛佐、但馬守、従四位下、侍従

生涯  

  • 浅野長政(長吉)の次男として生まれる。
  • 母は彌々(やや)(長生院、浅野長勝の養女)で、その母が朝日殿。彌々の兄弟に木下家定、高台院(ねね、北政所)がいる。
                            ┌─木下勝俊(長嘯子)
     杉原家利──┬─杉原家次───┬─杉原長房  ├─木下利房(足守藩2代藩主)
           │        └─おあこ   ├─木下延俊(豊後日出藩初代藩主)
           ├─朝日殿こひ     ├────┴─小早川秀秋(秀俊)
           │  ├─────┬─木下家定(足守藩初代藩主)
           │ 杉原定利   ├─────────やや
           └─七曲殿ふく  └─ねね(北政所)  ├───┬浅野幸長(初代和歌山藩主)
              ┝━━━━━━━━│━━━━━━浅野長政 ├浅野長晟(2代和歌山藩主)
           ┌─浅野長勝      │           ├浅野長重(笠間藩主)
           └─姉───浅野長政  │           ├豊姫(杉原長房室)
             木下弥右衛門    │           └智相院(松平定綱室)
              ├─────┬─豊臣秀吉
             なか     └─日秀    ┌─豊臣秀次(関白)
              │        ├────┼─豊臣秀勝
              │       三好吉房  │  ├───豊臣完子(九条幸家室)
              │             │ お江(のち徳川秀忠室)
              │             └─豊臣秀保(豊臣秀長養子)
              ├───────豊臣秀長
             竹阿弥
    

豊臣政権での浅野氏  

  • ねねが木下秀吉に嫁いだことから、浅野家は豊臣政権において重きをなした。
    浅野長晟の父である浅野長政は、ねねから見ると叔母七曲殿の養子で義理の従兄弟。実妹ややの結婚相手となる。浅野長晟はねねや秀吉の甥にあたる。
  • 父浅野長政は、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げ、近江国大津2万石を与えられている。
  • 天正12年(1584年)に長政は京都奉行職となり、のちに豊臣政権下で五奉行の筆頭となる。東国の大名との関係も深く、豊臣政権が諸大名から没収した金銀山の管理を任されていた。九州平定・朝鮮出兵でも功を重ね、甲斐国府中21万5千石を与えられている。※16万石は幸長、5万5千石は長政。

関ヶ原  

  • 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは家康を支持し、長政は秀忠の軍に従軍して中山道を進んでいる。また嫡子の浅野幸長(長晟の兄)は東軍の先鋒として岐阜城を攻め落とし、関ヶ原の本戦で活躍した。
  • 浅野幸長はこの功績により紀伊国和歌山37万石へ加増転封されている。長政自身は江戸幕府の成立後は家康に近侍し、慶長10年(1605年)には江戸に移った。
  • 長政は慶長16年(1611年)4月死去。遺物献上は長光。遺領は浅野采女正長重に。

長晟  

  • 長晟は、文禄3年(1594年)豊臣秀吉に仕えて3,000石を与えられている。
  • 関ヶ原の戦い以後は徳川家康に従い、徳川秀忠の小姓を務め、慶長15年(1610年)に備中足守に2万4,000石を与えられる。
  • 慶長18年(1613年)、初代和歌山藩主である長兄浅野幸長が嗣子無くして病死したため、家督を相続して紀伊国和歌山藩(紀州藩)の2代藩主となった。
  • 大坂の役では樫井の戦いでは塙直之らを討つという功績を挙げている。

振姫  

  • 元和2年(1616年)4月、浅野長晟は家康の徳川家康の三女で、会津藩初代藩主の蒲生秀行と結婚していた振姫(正清院)と結婚する。
    振姫には、すでに蒲生秀行との間に蒲生忠郷(会津藩第2代藩主)、蒲生忠知(伊予松山藩主)、崇法院(加藤忠広正室)がいた。
  • 振姫は和歌山に来た翌年に長晟の次男浅野光晟を産むも、その16日後に死去した。

安芸広島藩  

  • 元和5年(1619年)に福島正則が改易されると、長晟はその後を受けて安芸広島42万石に加増移封されている。
  • 寛永9年(1632年)9月3日、広島で死去。享年47(満46歳没)。
  • 家督は振姫が生んだ浅野光晟が継いだ。
    光晟は寛永9年(1632年)11月1日、父の遺物として「和歌山正宗」を将軍家に献上している。さらに3年後、寛永12年(1635年)に前田利常の三女満姫が、家光の猶子として光晟に嫁いだ時に、利常はこれを婿引出として光晟に贈っている。

    浅野光晟には庶兄浅野長治がいる。振姫の子である光晟が継ぐが、その際に浅野長治は父の遺領のうち備後国三次郡と恵蘇郡に5万石を分けられ、三次藩を立藩してその初代藩主となっている。この長治の三女が赤穂事件で有名な播磨赤穂藩主浅野長矩の正室となった阿久里である。
  • 浅野光晟は寛永9年(1632年)11月に遺物として正宗を献上している。

    十一月朔日月次拜賀例の如し。松平安藝守光晟。淺野内匠頭長直。南部山城守重直襲封を謝し。光晟は父但馬守長晟遺物正宗の脇差。玉堂の茶入。

関連項目  


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