来一門


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 来一門(らいいちもん)

鎌倉中期以降に粟田口派に代わり山城で栄えた刀工集団

来国吉[仁治]──来国行[正元]──二字国俊──┬来源国光[嘉元]─┬来光重
                [正応・嘉暦] ├光包[正和]   └来国光[建武]
                        ├来国真[正和]【中島来】
                        ├来倫國[正和]【中島来】
                        ├来国宗
                        │
                        ├来国次[正応]─┬来国秀[元応]
                        │ 【鎌倉来】  └来国次[正応]
                        │
                        ├来国泰[文保]
                        ├来国安[元徳]
                        └来国長[元徳]──来国長[慶安]
                     孫太郎国俊[正応・元亨]──了戒 

※諸説あり。[]は推定活動年間
※古刀期の刀工の相互関係については、年紀銘などからの類推が多くほとんどわかっていない。
Table of Contents

 由来

  • 「来」の由来については諸説がある。以下主な説をあげる。
  1. 先祖が高麗から来たため
    竹屋直正伝書、新刊秘伝抄本朝鍛冶考など
  2. 国行が高麗から来た
    古刀銘盡大全、日本国鍛冶惣約、正銘写物目録、天文目利書、空中斎秘伝書古刀賞監伝
  3. 異国から来た銅細工職人だと云うので「来」姓を賜った
    長享目利書、日本国中鍛冶銘文集
  4. 開祖国吉が唐から来たため
    如手引抄
  • 要するに諸説あるが、異国より来た一族であろうという点で共通している。
  • 「日本刀大百科事典」では、このうち3の賜姓説がもっとも説得力があるとしている。
  • なお「来」銘を用いるのは正応年間(1288-1292年)の来国俊に始まり、それ以前の国行、二字国俊には来銘が見当たらない。このため、この頃までは「来」を名乗っていない可能性も指摘されている。(佐藤寒山 1999)

 開祖:来国吉

  • 来派の祖。来国吉。
    開祖については諸説あり、国吉の父国明を祖とする説や、国吉の父を国延、国延の父国明(つまり国吉の祖父)を開祖とする説などがある。ただしいずれも現存作がないため、現在では実質的な開祖は国行とされる。
  • 国明の子とする。国吉、または祖先が高麗から渡ってきたとする伝説がある。
  • 通称雷太郎、左衛門二郎。
  • 古剣書には作の記載があるが現存しない。
  • 鍛冶ではないとの指摘もある。

    非鍛冶



相模守来国吉
新刀に「相模守来国吉」と銘を切る刀工がいるが、無関係。相模守来国吉は江戸法城寺派のひとりで、寛文元年(1661年)に弘前藩4代津軽信政のお抱え刀工となった人物。津軽三刀工のひとりとされる。銘はほかに「相模守藤原来國吉」、「来國吉」、「國吉」などと切る。

 来国行

  • 開祖国吉の子で実質的な開祖とされる。
  • 著名作については「来国行」の項参照

 国俊(二字国俊

  • 正応年間(1288~1293)。
  • 古刀最上作
  • 著名作については「国俊」の項参照

 国俊

  • 孫太郎国俊
  • 「来国俊」の三字銘で、古来より二字国俊とは別人の説が有力
  • 正応から元亨年間。
  • 著名作については「国俊」の項参照

 藤島友重

  • 藤島友重:越前吉田郡藤島の出で、来国俊の門に入る。のち加賀石川郡泉村に移住し、藤島派の祖となる。

 来国光

  • 著名作については「来国光」の項参照


 了戒

  • 国俊の子、あるいは二字国俊の子。
  • 山城国了戒
  • 通称、京五郎、五郎、左衛門五郎など。
  • 古刀上作、大業物
  • 正応、永仁、嘉元。正和。鎌倉末期。
  • 正和元年鎌倉幕府が全国に令して切味の優秀な刀を書き出させた「注進物」には備前国宗とともに切れ味抜群の旨が注記される。
  • 著名作は「了戒」の項参照

 二代了戒

  • 「嘉元三年」「九郎左衛門尉」

 信国

 信国(初代)

  • 了戒、あるいは来光重、綾小路貞利の子とする。
  • 通称弥五郎。初銘信久、久信。法名清久。
  • 師匠は相州貞宗とし、貞宗三哲の一人とする。平安城光長、長谷部国重説もあり。
  • 京都の信濃小路、のち五条坊門の住。山城国相州伝
  • 建武2年の作あり、「国」の字を右字に切る
  • 著名作は「信国」の項参照


 二代信国

  • 信国
  • 初代の子とする。
  • 通称源五郎。

 刑部丞信国

  • 刑部丞
  • 応永年記あり、「応永信国

 三代信国

  • 二代の子。
    • 初代の子で初銘信光、通称源左衛門尉。初代の婿で初銘正信、通称源左衛門など諸説あり。
      この源左衛門信国からみて、初代信国を「祖父信国」とも呼ぶ。
  • 応永年記あり、「応永信国
  • 「国」の字を左字に切る

 式部丞信国

  • 初銘信貞。源左衛門尉の弟まただ二代信国の子。
  • 応永年記あり、「応永信国
  • 「国」の字を右字に切る

 来国眞・倫国

  • 国俊の子
  • 摂津国中島に移住したため「中島来」と呼ばれた。
  • 来国長:中島来。同名二代。元徳ごろを初代、延文・応安ごろを二代とする。

 来国長

  • 南北朝時代
短刀
銘「来国長」。長一尺一寸。伊予松山藩主久松松平家に伝来。伯爵久松定謨。
無銘 伝来国長作。帳89.9cm。鎬造、庵棟、反りは浅く、鍛えは大杢目。大正15年(1926)、南部利淳から桜山神社に寄進されたもの。桜山神社所蔵。1927年4月25日重要文化財指定。
  • 宗長:弟子の宗長は若狭小浜に移住した。
  • 宗吉:宗長の弟子。「若州住宗吉」
太刀
銘「宗吉作」明治44年4月17日旧国宝指定。熱田神宮所蔵
太刀
銘「宗吉作」明治45年2月8日旧国宝指定。熱田神宮所蔵

 来国次

  • 国俊("来国俊"の三字銘)の娘婿。国光の従兄弟とも。
  • 古刀最上作
  • 初め来国俊に師事、のち鎌倉に移住し、相州正宗の門に転じたため「鎌倉来」と呼ばれる。正宗十哲の一人。
  • 著名作については「来国次」の項参照

 来国次(二代)

  • 国次の子国秀は、父の死後国次を襲名する。
  • 正慶ころ「来源国次」が二代であるとされるが異説もある。

 来光包

  • 来光包
  • 短刀の名手で、古刀上々作。古来来国俊より上出来のものを光包と見よといったという。
  • 長船光忠の子、または長光の弟または子という。
  • 通称平四郎、のち佐助。
  • 中堂来(ちゅうどうらい)。正和年間。備前の順慶長光の下で学んだのち、文保のころに上京し来国俊に入門。
  • 江州根本中堂に参籠して鍛刀し中堂来と呼ばれる。江州戸津住で戸津来とも
  • 延慶から文保年間の作がある。
乱光包
享保名物
桑山光包
享保名物
冷泉民部所持
毛利家臣の冷泉民部少輔元満が天正年間に女に化けた妖怪を刺殺したのに使ったのも光包作という。
延慶光包
えんけいみつかね。表「光兼」裏「延慶二年二月日」と在銘。刃長九寸七分四厘。重要文化財指定。天明6年(1786年)の押形「首斬り浅右衛門刀剣押形」「新刀古刀大鑑」などに所載。ただし角野押形の同年作の銘と相違し、地鉄も若いため偽物とされる。

 その他

淡路来
来国安は摂津淡路庄に移り淡路来と呼ばれた。
越前来
淡路来初代国安の門弟二代国安は、のち越前敦賀に移住し千代鶴派の祖となった。
比企来
国俊の子である来国末の別称。京都から鎌倉比企が谷に移住したため
菊池延寿派
肥後菊池延寿派の祖は来国村とされる。国村は建治ごろ、その後、国吉、国時、国資、国泰、国友などが現れた。

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