黒金座主


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 黒金座主(くるかにじゃーしー、くるがにざーし)

沖縄に伝わる伝説の悪僧
耳切り坊主(みみちりぼーじ)とも

Table of Contents

 概要

  • むかし尚敬王のころ、妖術を用いて信者の女性をたぶらかす不義を働く悪僧がいたという。この噂が尚敬王の耳にも入ったことから王弟の北谷王子にその退治を命じる。
  • 北谷王子が探ってみると噂の通りであったため、王子は黒金座主に「囲碁の勝負をしよう」と誘いをかける。王子は囲碁の最中の隙をねらって黒金座主を斬ろうと考えていたが、やがて黒金座主にその殺気が伝わってしまう。
  • そこで黒金座主は逆に王子に対して「ただの囲碁ではなく勝負いたそう。もし王子が負けたなら武士の命であるカタカシラ(琉球王朝期の髷)を頂こう。もし私が負けたならこの自慢の福耳を差し上げようではないか」と提案する。
  • 王子もこの黒金座主の提案に乗り、勝負はさらに白熱していく。徐々に北谷王子の有利な展開となったとき、黒金座主は一瞬のすきをついて逃げようとするが、北谷王子が刀を抜き黒金座主の顔を切り裂き耳を切り落としてしまった。黒金座主は王子に負けたことを恨み、呪いながら死んでいったという。
  • その後、北谷王子の家には黒金座主の亡霊が出るようになり、男子が生まれると早死することが続いた。そこで王子の家では、男子が生まれると「大女子(うふいなぐ)が生まれた」と唱え、黒金座主のたたりを避けるようになったという。
  • この逸話はやがて民謡となり、琉球中で語られるようになったという。

    へいよーへいよー泣かんどー
    大村御殿ぬかど(門)なかい
    耳切り坊主ぬ立っちょんどー
    幾人幾人立っちょんどー
    三人四人立っちょんどー
    いらな(鎌)んシーグ(小刀)ん持っちょんどー
    泣ちゅるワラベ(童)耳ぐすぐす
    へいよーへいよー泣かんどー

    • ※地域により異同あり。
  • 北谷王子が黒金座主を切った時に使った刀が、「治金丸」であるともいう。


 話の背景

  • 一般に悪僧として語られるこの黒金座主は、実在の人物である盛海(じょうかい)座主をモデルにしているという。
  • 盛海座主は真言宗護国寺(那覇市)の第18代往持である。「沖縄仏教史」によれば、「盛海座主は北谷王子の悪政を責めたために王子に殺された」とされる。また「琉球国旧記」では「住持の盛海和尚が書類をもって、知事僧を設けることを請うた」とある。仏教勢力の伸長を狙っていたことが窺い知れる。
  • いっぽう物語に登場する北谷王子は、琉球第二尚氏王統で第12代国王尚益王(1678-1712)の次男・尚徹で、のち北谷王子朝愛の養子となった北谷王子朝騎(大村御殿二世。おおむらうどぅん、うふむらうどぅん)であるという。
    【第二尚氏】
    
    尚質王─┬尚貞王─────────中城王子尚純──尚益王─┬尚敬王
        ├大里王子朝亮【摩文仁御殿】           │
        ├名護王子朝元【名護御殿】            │
        ├北谷王子朝愛【大村御殿】━━━━━━━━━━━━┷尚徹(北谷王子朝騎)
        ├東風平王子朝春【勝連御殿】             【大村御殿二世】
        ├本部王子朝平【本部御殿】
        └宜野湾王子朝義【与那城御殿】
    
  • 事実黒金座主の伝説通り、大村御殿二世を継いだ北谷王子朝騎には嗣子がいなかったため、名護御殿四世・名護按司朝宜長男が養子となって跡を継ぎ大村王子朝永(大村御殿三世)となっている。
  • さらに第13代国王尚敬王(1700-1751)の時代である康熙61年(享保7年、1722年)に徳川幕府が享保検地を行ったことで、琉球は薩摩藩による増税に苦しむこととなり、尚益王により重用されていた蔡温は財政の緊縮化を目指す。
    蔡温(さいおん)
     近世琉球王国の代表的な政治家。字は文若。琉球名は具志頭文若(ぐしちゃん ぶんじゃく)、具志頭親方(-うぇーかた)を称した。
     父は久米村の蔡氏志多伯家十世・蔡鐸、母は葉氏真呉瑞。蔡氏は久米三十六姓のひとつ。尚貞14年(1682年)生まれ。尚貞40年(1708年)から中国福州の琉球館に存留通事(通訳)として2年間滞在して陽明学、地理学などを学び、帰国後の尚益2年(1711年)に王世子・尚敬の世子師職兼務近習役となる。翌年尚敬が王位に就くと国師職(国王の教育係)となった。国師は蔡温以前にも以後にも就任した者のない地位であり、琉球国全体を指導する役割を担うことになった。尚敬12年(1724年)からは正史である「中山世譜」を重修している。この「中山世譜」は「中山世鑑」を元に父・蔡鐸が漢文でまとめたものがあったが、それを子である蔡温が大幅に改訂した。それぞれ蔡鐸本、蔡温本と呼ぶが、現在一般に「中山世譜」といえば蔡温本を指す。
     蔡温は久米村出身者として異例の出世を遂げ、首里に屋敷を与えられたのみならず、尚敬16年(1728年)には47歳で家老に相当する三司官に就任した。3代の琉球王に25年間の長きに渡って仕え、琉球王国の実質的責任者の地位にあった。蔡温はまた儒学・朱子学を学んだ儒教イデオロギーに基づく思想政策を行い仏教や老荘思想に批判的な立場をとったほか、特に林政分野で力を発揮した。尚穆6年(1757年)三司官を辞し、尚穆10年(1762年)死去。80歳。著作多数。
  • 波之上宮(なみのうえぐう)の別当寺として創建されて以来、護国寺は琉球国王の祈願寺であったという。しかしこの盛海座主のころの政治状況により、王朝との対立は避けられないものになったと想像される。この逸話は当時の琉球王朝と宗教界との確執が元になり起こった事件と見ることもできる。


 波之上宮(なみのうえぐう)

神社本庁別表神社
琉球八社の一つ

  • この波之上宮一帯は、現在は沖縄県那覇市若狭・久米となっており、陸続きである。
  • しかし1700年ごろまで久米は独立した島(浮島)であり、現在国道58号線の走るあたり、沖縄本島との間には数百メートルの海峡があった。
  • 島の岬に位置するところに古来、御嶽(ウタキ)があったところへ、本土から来た人間が波之上宮として整備したのだという。浮島の岬の先に建てられたからこそ、波之上宮と呼ばれたのだと思われる。
  • また、明から海をわたってきた渡来民である閩人たちは、いわば出島である久米(浮島)に住まわされたといい、その子孫を久米三十六姓と称する。彼らは久米村人(くにんだんちゅ)と呼ばれ、琉球の外交、貿易に従事し、多くの政治家や学者等を輩出した。
    なお古の久米の浮島と、沖縄本島の西100kmに位置する沖縄県島尻郡の久米島とは別ものである。
  • やがて15世紀半ばに沖縄本島と久米との間に通行するための道(長虹堤(ちょうこうてい))が整備され、その後大規模な埋め立てが行われ陸続きとなったという歴史がある。

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