鶯丸
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鶯丸(うぐいすまる)
太刀
銘 備前国友成
鶯丸
刃長二尺七寸(81.8cm)、反り九分(2.7cm)
御物
山里御文庫 御剣庫蔵(宮内庁管理)
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由来
- 由来は明らかではないが、室町時代にはすでに鶯丸の呼称があったという。
来歴
足利将軍家
- 元は足利将軍家の所蔵
小笠原政康
- 永享11年(1439年)の結城合戦で功のあった小笠原政康が、室町幕府6代将軍足利義教より褒賞として拝領した感状が太刀に付属している。
政康。 十二年五月發向下總國。 攻結城館。 時政康賜將軍號。 攻撃凶徒。 生捕持氏子春王丸。 安王丸。 於濃州垂井誅之。 依其忠賞賜感状并友成太刀(號鶯太刀)。
今度結城館事。 即時攻落。 凶徒等悉討捕。 剩虜春王丸 安王丸畢。 武略無比類歟。 被感思食候。 勿鶯太刀 友成一腰遣候也。
五月廿六日 義教
小笠原大膳大夫入道殿(正康)
文和元年(1352年)に政長が「鴬之太刀」を拝領したとも伝わるが、こちらは「銘影之一字御座候」との註釈が付いている。
- 子孫の越前大野郡勝山藩主の信嶺系小笠原家に伝来。
【府中小笠原家】 【小笠原宗家・豊前小倉藩】 小笠原長基─┬長将──持長──清宗──長朝──貞朝──長棟─┬長時──貞慶──秀政─┬忠脩 │ └信定──長継 └忠真 ├長秀 │ 【鈴岡小笠原家】 └政康─┬宗康──政秀━━長朝 │ │ 【松尾小笠原家】 └光康──家長──定基──定基──貞忠──信貴─┐ (甲斐へ逐電) │ │ ┌─────────────────────────────────┘ │ │ 【信嶺系小笠原家】 └─信嶺━━信之─┬政信━━貞信 │ └娘 【越前勝山藩】 ├─小笠原貞信──信秀──信辰━━信成━━信胤━━信房 交代寄合高木貞勝長 └──信房 信之:酒井忠次の三男 信成:酒井忠次の五男・酒井忠知の子孫 信胤:本多忠統の次男
伊那小笠原氏が何度か転封を繰り返し、元禄4年(1691年)小笠原貞信の代に越前勝山2万2000石の藩主となり明治を迎えている。
- 元文元年(1736年)9月13日、将軍吉宗の命により感状とともに台覧に供している。
元文元年九月十三日おほせによりて普廣院義教の感状、をよび久國重長の太刀ならびに友成作の鶯の太刀等を台覧に備ふ
(寛政重脩諸家譜 信胤の項)
宗重正
- その後対馬藩主宗家に伝わる。
対馬藩最後の藩主宗重正が、伊勢家伝来の「小烏丸」と同じ頃に買い取ったという。
山本達雄
- 明治ごろに、宗伯爵家に伝わっていたものを山本達雄氏(第5代日本銀行総裁、大蔵大臣、農商務大臣、内務大臣を歴任)が千五百圓で買ったという。
明治維新後に宗伯爵家に入り、秋元子爵が千五百圓で譲り受け、さらに同家から売りに出されたものを田中光顕伯爵が買い取ったともいう。
なお、越前勝山藩信嶺系小笠原家11代の小笠原長育は、子爵となり明治天皇と大正天皇の東宮侍従を務めている。
明治天皇
- 明治40年(1907年)11月の茨城県陸軍特別大演習の際に、田中光顕伯爵が明治天皇に献上している。
他の一刀は、日露戰役祝捷の意を表するため、明治四十年十月、陛下が陸軍特別大演習御統監の爲め茨城縣結城に鳳輦を進められた際、其の祕藏の名刀備前友成の作を獻ぜられた。此の刀は結城に因みがあり、鶯丸と名づけて足利家の寶刀である。伯このたびの獻上には二首の國風を添へられた。
みいくさは戰ふ毎に勝山の城につたへし太刀たてまつる
大前にさゝぐる太刀のつかの間もわれはわすれじ君が恵みをこの時、それまで「飯島ヶ原」と呼ばれていた地名を、天皇が「伊讃美ヶ原」と名付けられたという。一部書籍で明治41年(1908年)としているものがあるが、茨城県で行われた明治40年(1907年)の陸軍特別大演習時の献上という。41年は大阪、42年は栃木、43年は岡山で実施。明治四十年特別大演習茨城県記録 - 国立国会図書館デジタルコレクション
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