鳩丸
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鳩丸(はとまる)
短刀
銘 藤六左近国綱
刃長八寸八分
由来
- 金具の鳩に由来する。
来歴
家康→岡野内匠介
- 花山院家の家士、岡野内匠介健則が慶長18年(1613年)に家康から拝領。
花山院家は藤原北家師実流の嫡流。家格は清華家。京極摂政藤原師実の次男家忠を家祖とする。家名は、家忠が舅から花山院第(東一条殿)を伝領したことによる。
東福門院
- 元和6年(1620年)6月、秀忠の娘東福門院(徳川和子)が後水尾天皇に入内したので、その守刀として「鳩丸」を献上する。
岡野家
- 寛永9年(1632年)賀子内親王誕生の後、「鳩丸」は岡野家へお下げ渡しとなった。
賀子内親王はのち二条光平と縁組し、慶安元年(1648年)には後の徳川綱重正室となる娘(隆崇院)を出産している。
- 寛永11年(1634年)、石川丈山が「一握之刀 攘夭禦鳩 神祖所賜」という銘文を綴ってくれた。
石川丈山は江戸時代初期の文人。もとは武士で徳川家康の近侍であったが、大坂の役後、軍令違反を犯し牢人となった。藤原惺窩に師事し、儒学を学ぶ。江戸初期における漢詩の代表的人物で、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通していた。鷹が峰の本阿弥光悦、八幡の松花堂昭乗と共に、幕府の意を受けて京中の監視をしていたとの説もある。
- また細川幽斎も「これそ此かまくら山のうち刀 世にたぐひなきこしやきばかな」と一首添えてくれたという。
細川藤孝
一國綱かつくりし短刀のいみしきを見侍りて
これそ此かまくら山のうち刀子
世にたくひなきこしやきはかな
ただし、これは鳩丸を見てのものではなく、國綱作の別の刀を見て詠んだものであるという。
- 寛政5年(1793年)に岡野健則の子孫岡野新太郎則淳が死去すると、嗣子がなく、異母弟で大坂で刀屋を営んでいた岡野新次郎が岡野家伝来の鳩丸、藤丸など21品を継承した。
- 享和4年(1804年)8月、京都の竹屋太兵衛に頼み、研ぎ直している。
- 文化2年(1805年)3月25日、松平定信の命により菩提所の白雲和尚が森川曽吾の案内で見に来た。
森川曽吾は森川竹窓。書家・画家・篆刻家。通称曹吾、大和の人。松平定信が『集古十種』を編纂したとき竹窓も協力を要請された。
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