雲行雨施刀
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雲行雨施刀(うんこううしのとう)
- 土佐藩主の山内家で上野大掾久国に作らせた宝刀。
- 上野大掾藤原久国は土佐幡多郡の出で、土佐山内家のお抱え鍛冶であった国益の養子となった。
由来
- 「
雲行雨施 」とは「易経」に書かれた言葉。 雲 行 き雨 施 す。天子の恩恵が広く行き渡り、天下が太平であることのたとえ。雲が空に流れ動いて雨が降り、万物をうるおし恩恵を施すさまをいう。
来歴
- 土佐藩の8代藩主山内豊敷が、享保14年(1730年)に藩工の上野大掾久国に5口つくらせたもの。
- そのうち一刀は豊敷の枕刀とするため、京都大通院の禅扃和尚に相談して最上の地鉄と彫刻の下絵を求めてくるように命じたという。
京都大通院は大本山妙心寺の塔頭寺院。開祖は妙心寺五十八世南化玄興 定慧円明国師。天正14年(1586年)に一柳直末が南化を請じて創建したもの。二世の湘南宗化 大航普済禅師は山内一豊の養子であり、以後、土佐山内家の菩提所となった。
- 彫刻は竜だったが、もらってきた下絵は緻密すぎたため、お抱え絵師である村上守続が描き直したという。
湘南宗化(しょうなんそうけ)
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての臨済宗の僧
- 山内一豊夫妻が秀次の配下武将として近江長浜2万石を領していたころ、長女
与祢 を天正14年(1586年)の地震で失ってしまう。 - この時に、門前で拾われたのが幼いころの湘南宗化であり、以後「拾(ひろい)」と名付けられ二人の子として育てられる。
湘南宗化は一豊の隠し子という説もある。
- しかし文禄4年(1595年)、豊臣秀次が切腹に追い込まれた頃に養父一豊の命で出家し、禅僧となった。
- 慶長元年(1596年)に妙心寺(妙心寺58世)の南化元興の弟子となる。関が原の後、山内一豊が土佐20万石に封じられると、養父母から土佐国五台山麓の吸江庵を与えられ、吸江寺として再興し住職となる。
この時妙心寺から連れてきた小坊主が、後に儒学者・朱子学者の山崎闇斎となる。
- 湘南宗化は、のち南化玄興の跡を継ぎ京都妙心寺大通院の2代住職、さらには朝廷から紫衣の勅許を受けるほどの高僧となっている。
- 一豊に子は生まれず、慶長8年(1603年)に実弟の山内康豊の嫡男山内忠義を養子とし、土佐藩を継がしめた。
- 見性院(一豊室、千代または、まつ)は、夫一豊が慶長10年(1605年)に死去すると、土佐を引き払って湘南宗化のいる妙心寺近くに移り住み余生を過ごした。
- 一豊夫妻の墓は京都大通院に仲良く並んでいる。
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