雌雄剣
雌雄剣(しゆうけん)
- 一対の剣のうち、一を雌剣一を雄剣と呼び、別々に置くと泣くという。
- 長い方を雄剣、短い方を雌剣と呼ぶ。
- また剣の切っ先が槍の穂先のように丸みを持ったものを雌剣と呼び、切っ先が張り角張ったものを雄剣とも呼ぶという。
- これとは別に、銅そのものに雌雄の別があり、童男童女が水を注げば銅が2つに割れる。この割れた面が凹型ならば雌、凸型ならば雄の銅となる。
- 雌銅で造った剣を雌剣、雄銅で造った剣を雄剣と呼ぶ。
- これらを帯びて江湖に入れば蛟龍や水神も畏れて近づかないという。
- なお古来文学作品において雌雄一対の剣など著名な雌雄剣が登場するが、刀剣用語としては登場しない。江戸時代に幕府の命を受けて編纂された「武家名目抄」などでも刀劔の部として実に細かな用語を載せているが、雌雄剣、夫婦刀、雌雄一対などの用語は採録されない。
小説などに登場する雌雄剣
- 雌雄剣といえば、「三国志演義」の劉備玄徳が帯びたという「雌雄一対の剣」や、干将・莫耶の夫婦が作った剣が挙げられる。
雌雄一対の剣
- 三国志演義(三國演義)の第一回に登場する。
原來二客乃中山大商。一名張世平、一名蘇雙(略)「玄德謝別二客、便命良匠打造雙股劍。雲長造靑龍偃月刀、又名「冷豔鋸」、重八十二斤。張飛造丈八點鋼矛。
(三国志演義 第一回宴桃園豪傑三結義 斬黃巾英雄首立功)- ※該当箇所に傍線を付けた。
- 桃園の誓いののち、中山の豪商である張世平と蘇双から貸してもらったお金で、劉備は「雙股劍」つまり雌雄一対の剣を作らせた。関羽は「冷豔鋸」と言う名の靑龍偃月刀を作り、張飛は丈八點鋼矛(蛇矛)を作ったという。
- なお演義で登場するのは「雙股劍」であり、この第一回のほか、第五回、第十一回、第三十一回に登場するが、
雌雄 剣、雌雄 一対などという記述はないようである。
干将・莫耶(かんしょう・ばくや)
- 干将・莫耶とは人名であり、また彼らが製作した剣であるとする。
- ただし莫耶の方は、干将の妻であったり、または別の
男性 であるとされることもある。
- ただし莫耶の方は、干将の妻であったり、または別の
- 干将は春秋時代の呉の人物とされ、後漢初期の「呉越春秋」において、その名と、雌雄一対の剣の制作過程が載る。さらに東晋の干宝が著した「捜神記(そうじんき)」では、双剣のその後についての後日談が語られる。
- この干将・莫耶の雌雄一対の剣の製作過程とその後の悲しい物語は古来著名であり、日本でも「今昔物語集」や「太平記」などに登場し、また刀剣書籍においても古今東西の名剣の枕詞のように登場する。
今昔、震旦の□代に莫耶と云ふ人有けり。此れ、鐵の工也。其の時に、國王の后、夏暑さに堪ずして、常に鐵の柱を抱き給ふ。而る間、后懐妊して産せり。見れば鐵の精を生たり。國王、此の事を恠び給ひて、「此は何なる事ぞ」□問給へば、后の云く、「我れ、更に犯す事无し。只、夏暑さに堪へずして、鐵の柱をなむ常に抱きし。若し、其の故に有る事にや」と。国王、「其の故也けり」と思給て、彼の鐵の工、莫耶を召して、其の生たる鉄を以て、寶の釼を造らしめ給ふ。莫耶、其の鐵を給はりて、釼を二つ造て、一をば国王に奉りつ。一をば隠して置つ。國王、其の莫耶が奉れる所の、一の釼を納めて置き給たるに、其の釼、常に鳴る。
(今昔物語集 震旦莫耶造釼献王被殺子眉間尺語 第卌四)昔周の末の代に、楚王と云ける王、武を以て天下を取らん為に、戦を習はし剣を好む事年久し。或時楚王の夫人、鉄の柱に倚傍てすゞみ給けるが、心地只ならず覚て忽懐姙し玉けり。十月を過て後、生産の席に苦で一の鉄丸を産給ふ。楚王是を怪しとし玉はず、「如何様是金鉄の精霊なるべし。」とて、干将と云ける鍛冶を被召、此鉄にて宝剣を作て進すべき由を被仰。干将此鉄を賜て、其妻の莫耶と共に呉山の中に行て、竜泉の水に淬て、三年が内に雌雄の二剣を打出せり。剣成て未奏前に、莫耶、干将に向て云けるは、「此二の剣精霊暗に通じて坐ながら怨敵を可滅剣也。我今懐姙せり。産子は必猛く勇める男なるべし。然れば一の剣をば楚王に献るとも今一の剣をば隠して我子に可与玉。」云ければ、干将、莫耶が申に付て、其雄剣一を楚王に献じて、一の雌剣をば、未だ胎内にある子の為に深く隠してぞ置ける。楚王雄剣を開て見給ふに、誠に精霊有と見へければ、箱の中に収て被置たるに、此剣箱の中にして常に悲泣の声あり。楚王怪て群臣に其泣故を問給ふに、臣皆申さく、「此剣必雄と雌と二つ可有。其雌雄一所に不在間、是を悲で泣者也。」とぞ奏しける。楚王大に忿て、則干将を被召出、典獄の官に仰て首を被刎けり。其後莫耶子を生り。面貌尋常の人に替て長の高事一丈五尺、力は五百人が力を合せたり。面三尺有て眉間一尺有ければ、世の人其名を眉間尺とぞ名付ける。年十五に成ける時、父が書置ける詞を見るに、日出北戸。南山其松。松生於石。剣在其中。と書り。さては此剣北戸の柱の中に在と心得て、柱を破て見るに、果して一の雌剣あり。眉間尺是を得て、哀楚王を奉討父の仇を報ぜばやと思ふ事骨髄に徹れり。楚王も眉間尺が憤を聞給て、彼れ世にあらん程は、不心安被思ければ、数万の官軍を差遣して、是を被責けるに、眉間尺一人が勇力に被摧、又其雌剣の刃に触れて、死傷する者幾千万と云数を不知。
(太平記 巻三十三 兵部卿宮薨御事付干将莫耶事)- ※ともに、傍線は引用者による。
- 現在の夫婦刀などの概念は、主にこの干将・莫耶の話を発展させたものである。
雌雄剣
野田繁慶
- 寛永元年(1624年)8月に紀州高野山の金剛三味院に寄進した二振りの刀。
- 刃長は雄剣が二尺四寸五分、雌剣は二尺三寸六分。
- 雄剣は弘法大師の宝物、雌剣は大師宝前の灯明料として奉納した。銘はともに「繁慶」二字銘。
斬鉄剣
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