鐙切り
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鐙切り(あぶみきり)
刀
来国行作
- 来一門の祖、来国行の作
- 陸奥津軽藩の初代藩主となった津軽為信の養父である大浦為則所用。
大浦為則は津軽大浦氏の生まれ。1541年に父政信が戦死したために家督を相続するが、病弱なために政務は家臣に任せていたと言う。のちに娘戌姫(阿保良 )を久慈為信(久慈信長の子で後の津軽為信)に娶わせ養嗣子として迎えた。大浦為則は、為信が阿保良と結婚し婿養子となった歳に亡くなっている。
- ある時、大浦為則が路傍にあった稲積を馬上から斬ったところ、力余って鐙を切り、さらに膝も傷つけてしまい一生不具になったという。
- 寛永4年(1627年)4月9日の落雷で焼失してしまった。
- この時鷹岡城(高岡城とも。後の弘前城)は5層の天守閣を持っていたが、吊されていた鐘が熱で真っ赤に燃え、その鐘が地下の火薬庫まで焼け落ちたために火薬に引火し、大爆発をおこしたという。このときの火柱は約20km程離れた
碇ヶ関 からも見え、飛散物は8kmほど先まで飛んでいったという。 - この後200年近く天守のない時代が続く。文化7年(1810年)、蝦夷地警備の功で石高が上がったのを期に、9代藩主津軽寧親が幕府に「三層櫓」を改築することを願い出、翌年に現在見られる3層3階の天守が完成した。
櫓で申請して天守を建てたという。
鐙切り
脇差
銘 清景
一尺七寸一分
- 二王清景の作
- 清景の二字銘。
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