鈴鹿御前
鈴鹿御前(すずかごぜん)
- 鈴鹿御前は、田村麻呂伝説に登場する伝説上の女性で、「立烏帽子(たてえぼし)」、「鈴鹿権現」、「鈴鹿姫」などとも呼ばれる。
- 伝承により、女盗賊、天女、第六天魔王の娘などその正体や描写は様々だが、室町時代以降の伝承はそのほとんどが坂上田村麻呂の鬼退治譚と関連している。
- 主に田村将軍とともに登場する時に、「三明の剣」と呼ばれる三振りの剣を奮う様子が描かれる。
伝承の形成
鈴鹿山の立烏帽子
- 鈴鹿山の立烏帽子の名前は、まず承久3年(1221年)前後の成立と見られる「保元物語」の「白河殿へ義朝夜討チニ寄セラルル事」に表れる。ここでは伊賀の武士山田小三郎是行の祖父行季が立烏帽子を捕縛したことを名乗りとして用いており、鈴鹿山に古くからいたという盗賊の1人であったと思われる。
伊賀国ノ住人山田小三郎是行、生年廿八、指セル人数ニハ候ハネ共、昔、鈴鹿山ノ立烏帽子ヲ搦テ、帝王ニ奉シ山田庄司行季ガ孫也
(半井本「保元物語」)物其者にはあらね共、安芸守の郎等、伊賀国の住人、山田小三郎伊行、生年廿八、堀河院の御宇、嘉承三年正月廿六日、対馬守義親追討の時、故備前守殿の眞前懸て、公家にもしられ奉たりし山田の庄司行末が孫なり。山賊・強盗をからめとる事は数をしらず、合戦の場にも度々に及で、高名仕たる者ぞかし。承及八郎御曹司を一目見奉らばや。
(校註 日本文学大系本「保元物語」) - 「異制庭訓往来」にも、藤原保輔と並び称される盗賊として名前が出ている。
於本朝者、鈴鹿山之立烏帽子、後一条御宇山城守保昌舎弟保輔、爲強盗張本、蒙追討之宣旨廿五ヶ度也
鈴鹿姫
- 弘長元年(1261年)の「弘長元年十二月九日公卿勅使記」では、鈴鹿山で兇徒の居場所として西山口加治□坂(蟹ヶ坂)を挙げており、ここでは鈴鹿姫を盗賊立烏帽子の崇敬した社の祀神とする。
一、路地事
伊勢國
鈴鹿山坂以西者、近江守護人可供奉歟、坂以東者、伊勢守護人可参御迎也
同山内、兇徒立所
加治□坂西山口、昔立烏帽子在所辺也。件立烏帽子崇神社者、鈴鹿姫坐。路頭之北辺也
田村将軍の英雄譚
- 室町時代に入ると、盗賊立烏帽子と鈴鹿姫の同一視が始まり、田村将軍の英雄譚に組み込まれていく。14世紀成立の「太平記」では、鬼切の伝来について田村将軍が鈴鹿ノ御前と剣合したという記述が表れる(巻三十二)。
其後此の太刀多田満仲が手に渡て、信濃国戸蔵山にて又鬼を切たる事あり。依之其名を鬼切と云なり。此太刀は、伯耆国会見郡に大原五郎太夫安綱と云鍜冶、一心清浄の誠を至し、きたひ出したる剣也。時の武将田村の将軍に是を奉る。此は鈴鹿の御前、田村将軍と、鈴鹿山にて剣合の剣是也。其後田村丸、伊勢大神宮へ参詣の時、大宮より夢の告を以て、御所望有て御殿に被納。其後摂津守頼光、太神宮参詣の時夢想あり。「汝に此剣を与る。是を以て子孫代々の家嫡に伝へ、天下の守たるべし。」と示給ひたる太刀也。されば源家に執せらるゝも理なり。
(太平記 直冬上洛事付鬼丸鬼切事)
- 室町時代の後期になると、「鈴鹿の草子」「田村の草子」で鈴鹿御前の伝説が描かれる。ここで鈴鹿御前は鈴鹿山中の御殿に住む美貌の天人として登場する。鈴鹿山の不思議を討つべく命じられた田村将軍は、山中を彷徨った末に御殿を見つけ出し、鈴鹿御前に剣を投げると、鈴鹿御前は立烏帽子を目深に被り鎧を着けた姿に変化する。鈴鹿御前は、厳物造りの太刀を抜き、俊宗を相手に剣合わせして一歩も引かず、御所を守る十万余騎の官兵に誰何もさせずに通り抜ける神通力、さらには大とうれん・しょうとうれん・けんみょうれんの三振りの宝剣を操り、「あくじのたか丸」や「大たけ(大たけ丸)」の討伐でも俊宗を導くなど、田村将軍をしのぐ存在感を示す。
奥浄瑠璃での発展
- さらに江戸時代に入ると、東北地方で盛んであった奥浄瑠璃の「田村三代記」において、田村将軍と夫婦となって子を儲け、田村将軍と娘に三明の剣を託して若くして亡くなる。
- しかし田村将軍が閻魔大王に訴えることで蘇り、103歳で大往生を遂げた後は鈴鹿山にて清瀧権現となったとする。
関連項目
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