蝉折
蝉折(せみおれ)
龍笛
須須神社所蔵(石川県珠洲市三崎町)
- 謡曲「敦盛」において、「小枝、蝉折さまざまに、笛の名は多けれども」と名笛の代表として出てくる。
身の業の。好ける心に寄り竹の。好ける心に寄り竹の。小枝蝉折様々に。笛の名は多けれども。草刈の吹く笛ならばこれも名は。青葉の笛と思し召せ。住吉の汀ならば高麗笛にやあるべき。これは須磨の塩木の海士の焼き残しと思し召せ。海士の焼き残しと思し召せ。
- 龍笛は雅楽器のひとつで竹管の横笛を指す。竜笛。「青葉」の項を参照
由来
- 朝廷に伝わった経緯を含めて「源平盛衰記」の「蝉折笛事」に詳述される。
- 鳥羽院の頃、宋の皇帝から御堂造営の為にとて、檜木の材木を所望ありけるに砂金千両に檜木の材木贈ったところ、そのお返しとして種々の重宝を返送してきたと言う。
蝉折ト云御笛ハ。鳥羽院御時唐土ノ國王ヨリ。御堂造営ノ爲ニトテ檜木ノ材木ヲ所望アリケルニ。砂金千両ニ檜木ノ材木ヲ被進送タリケレバ。唐土ノ國王其御志ヲ感ニシテ。種種ノ重寶ノヲ被報進ケル中ニ漢竹一兩節間被制タリ。
- その中に、生きた蝉のような節のついた笛竹(漢竹)一節があった。大変貴重な笛竹であったため、三井寺の法輪院覚祐僧正(大進僧正覚宗)に命じて祭壇の上で七日間の祈祷を行ってから笛にされたと言う。
竹ノ節生タリ。蝉ニツユガハザリケレバ。希代ノ寶物ト思召テ。三井寺ノ法輪院覺祐僧正ニ仰テ護摩ノ壇上ニ立テ七箇日加持ニシテ後。彫タリケル御笛也ケレバオボロゲノ御遊ニハ取モ出サレザリケリ。
- これで作った笛を高松中納言藤原実衡(実平。藤原仲実の長男。権中納言従三位)が吹いた際、普通の笛と同様にうっかり膝より下に置いたところ、笛が無礼をとがめたのか節のところで蝉が折れてしまったために、以降「蝉折」と呼ばれたという。
鳥羽院ニテ御賀ノ舞ノアリケルニ閑院ノ一門ニ高松中納言實平。此御笛ヲ給テ吹ケルガ。スキ聲ノシケルヲアタヽメントテ普通様ニ思ツヽ膝ノ下ニ推カイテ。又取上吹ントシテケル。笛咎ヤ思ケン。取ハヅレテ落ニシテ。蝉ヲ打折ケリ其ヨリシテ。此笛ヲ蝉折トゾ名ケル。
- 「平家物語」にも同様の話が載る。
さる程に宮は、山門は心がはりしつ、南都は未だ参らず、この寺ばかりでは、いかにもかなふべからずとて、同じき二十三日の暁がたに三井寺を出でさせ給ひて、南都へ落ちさせおはします。この宮は蝉折、小枝とて、漢竹の笛を二つ持ち給へり。中にも蝉折は昔鳥羽の院の御時、宋朝の御門へ砂金を多く参らつさせ給ひたりしかば、返報とおぼしくて、生きたる蝉の如くに節のつきたる笛竹を、一節参らつさせ給ひけり。これ程の重寶を、いかゞさうなう彫らせらるべきとて、三井寺の大進の僧正覺宗に仰せて、壇上に立て、七日加持して彫らせ給へる御笛なり。ある時高松の中納言實平の卿参つて、この御笛を吹かれけるに、世の常の笛のやうに思ひ忘れて、膝より下に置かれたりければ、笛や咎めけん、その時蝉折れにけり。さてこそ蝉折とは召されけれ。この宮笛の御器量たるに依つて、御相傳ありけるとかや。されども今を限りとや思召されけん、金堂の彌勒にこめ参らせ給ひけり。龍華の暁、値偶の御爲かとおぼしくて、あはれなりし事どもなり。
(平家物語)
来歴
高倉宮以仁王
- その後、「御孫子とて」「笛の器量(上手)たるに依って」鳥羽院孫にあたる高倉宮(以仁王)が相伝し愛用していた。
高倉宮管弦ニ長ジマシマシケル上。コトニ御笛ノ上手ニテ渡ラセ給ケレハ。御孫子トテ鳥羽院此宮ニハ御譲アリケル也。宮モ故院ノ御形見ト被思召ケレバ。聊モ御身ヲ放タセ給ハザリケレ共。深ク龍華ノ値偶ト思召ケレバ。彼天ノ楽ヲ奏ニシテ。此寺ノ本尊ニ進給ヒケルコソ哀ナレ。
以仁王は後白河天皇の第三皇子。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。異母兄に守仁親王(二条天皇)、憲仁親王(高倉天皇)。
- なお以仁王は、「蝉折」とともに「小枝」も所持していたが、のち平家追討の令旨を発して決起し三井寺に落ちる際に、高倉院御座所の枕元に忘れたのを長兵衛尉信連(長信連、長谷部信連、左兵衛尉。滝口の武士)が追いつき手渡したと言う。
希代ノ寶物共モ打捨サセ御座御厨子ニ被殘ケル。(略)其中ニ声だト聞シ漢竹ノ。殊御祕藏アリケルヲハ。何ノ浦ヘモ御身ニソヘントユソ。兼テハ被思召ケルニ。餘リノ御心迷ニ常ノ御所ノ御枕ニ殘シ留ラレケルコソ御心ニカケテ立歸テニ取マホシク思召テ延モヤラセ給ハズ。御供ニ候ケル信連ヲ召テ。加程ニ成御有様ニテハ何事カ御心懸ルヘキナレトモ小枝ヲシモ忘ヌル事ノ口惜サヨ。イカヽセント仰有ケレハ。信連サル男ニテ。最安キ御事ニテ侍トテ。走歸御所中大概取シタヽメテ。此笛ヲ取二條高倉ニテ追付進テ獻之。宮御涙ヲ流サセ給ヒ。ヨニモ御嬉シゲニヒ思召タリ。
- 以仁王は、三井寺(園城寺)金堂の弥勒菩薩像に「蝉折」を預けて奈良興福寺へ向かうが、途中宇治平等院にて頼政もろとも討ち取られる。
源義経
- こうして「蝉折」は三井寺から再び宮中に戻った後、平家の手から源義経の所持するところになったという。
これ以前の来歴は平家物語や源平盛衰記による。以降は須須神社の「蝉折笛縁起」による。
平時忠が壇ノ浦の後に能登の大谷(珠洲市)へ流罪となっており、後に義経がこの時忠の家に泊まり、船出の際には時忠の娘の蕨姫も同行したと伝わる。
- 須須神社の「蝉折笛縁起」によると、頼朝に追われる身になった義経一行が奥州平泉へ向かう際、安宅の関(石川県小松市)から舟で出たが三崎(須須)の沖で大暴風雨が吹き押し戻された。義経が三崎権現に祈願したところ暴風が止んだため、加護に感謝した義経が須須神社を訪れた際に、所持していた「蝉折」と、弁慶が所持していた「左」と言う銘入りの守刀が奉納されたといい、今に伝わる。
源義経奥州下向之時、適阻風波難於船中祈此神矣、俄而風波始定舳艫無恙也、於是寄附梵竹之横笛、以賽明神也、彼笛今尚在焉、
神主
船木大宮司
万治之三載夏之孟吉辰 猿女君友胤
- この三崎権現とは現在の須須神社(すずじんじゃ)であり、「蝉折の笛」は弁慶が奉納したという「弁慶の守刀」と共に宝物館に所蔵されている。
- 天正14年(1586年)、前田利家により再興されており、その際に利家が献詠した歌も残る。
ほうくわん殿 この笛をこのすずのやしろにささげ給へとなん ありしよの そのあらましをきくからに 袖さへぬれてねにそなかるる
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