蜻蛉切


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 蜻蛉切(とんぼきり)

大笹穂槍
銘 藤原正真作(号 蜻蛉切)
長さ二丈(刃長43.7cm)

  • 三河文珠派、藤原正真(まさざね)作の大笹穂槍
    「大笹穂槍」とは槍身の種類。「笹穂槍」とは、笹の葉のように先端が鋭くまた中央部が張って腰が締まっており、重ね薄く造り込まれた直槍のことをいう。
  • 柄は長さ二丈(約6m)で、柄には青貝をちりばめた名槍。長さ九尺六寸ともいうが現存するものは長さ一丈三寸で鉄の口金、鍔、石突きがついている。
  • 忠勝は槍には鞘をつけず、油紙で巻いていたともいう。

    本多忠勝ハ生涯、蜻蛉切ニ油紙ヲ懸ケラレシト雖モ、抜群ノ事ナレバ拠トシカタシ

  • 穂の長さは一尺四寸五分五厘(一尺三寸とも、一尺四寸五分ともいう)。幅は一寸二分五輪。
  • 表は鎬造り、鎬の両面に二筋樋。裏は平造りでもとに蓮華、梵字1つを彫り、その上に幅広の樋をかく。その中に三鈷剣と梵字3つを浮き彫り。中心は長さ一尺八寸三分五厘、目釘孔2個。銘「藤原正真作」。
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 由来

  • 蜻蛉(トンボ)が飛んできて穂先に止まった途端、二つに切れてしまったことが名前の由来。

    忠勝の鑓は、身長く柄太く、二丈許りなるに、青貝を摺りたるなり。蜻蛉の飛來て、忽ちに切れたれば、蜻蛉切と名付けしなり。

    家康が、忠勝の槍は日本を切り従えたのだから「日本切り」とするがよかろうといったが、忠勝は謙遜して日本の形は蜻蛉に似ているので蜻蛉切りと名づけたともいう。
  • 元亀3年(1572年)10月、遠州一言坂の戦いで退却する際、本多忠勝はこの槍を掲げ見事に殿軍を指揮した。武田方からも「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛されたという。
    この記述は甲陽軍鑑によるもので、忠勝と遭遇戦をした「小杉左近」による立て札が元だとされている。この小杉左近なる人物については存在自体が信憑性を疑われているが、一方で狂歌自体は「信其」という人物が書き残した日々記に書かれており、それが細川忠興の書状により残っている。それによれば「信其ノ日々記、今朝よそより歸候て只今帋一二枚見申候、事ノ外數多キ事候間、奥まて見候事成ましき間返申候、此内ニ本田中書(※平八郎忠勝)之若時ノ事ヲ、信其唐ノ頭ニ本田平八とうたニよまれ候由申傳候、御入候哉可承候、」とする。
  • 天正3年(1575年)5月、長篠合戦の時、武田方の内藤昌豊が家康の本陣めがけて突進した時も、本多忠勝はこの槍で防戦している。
  • 天正10年(1582年)6月の本能寺の変の際にも、この槍で先導したという。
  • 天正12年(1584年)4月の長久手の戦いにおいても、秀吉は忠勝の武者振りを賞賛している。
  • 慶長5年(1600年)の関が原の戦いでは、島津勢の鉄砲にあたり落馬し危うく首を掻かれるところであったが、梶金平が自分の馬に乗せて逃がしたため助かったという。
  • 翌年(1601年)、伊勢桑名城主になった頃、城下の町家河原に出て馬上でこの槍を振り回した後、柄を三尺ほど切り詰めさせた。平八郎の家臣が不審がると、道具は己の力に応じたものでなければならぬといったという。

    忠勝年老て後、或日桑名の町屋河原に出て馬に乗りながら此鑓の石突執て振りけるに、歸りて柄三尺計り切て捨てたり、人怪しみければ、兵杖は巳が力を計りて用ふべきものなりと言はれけり。

    本多忠勝は天文17年(1548年)の生まれで、この伊勢桑名城主の時には53歳。平八郎は慶長9年(1604年)ごろには病勝ちになり、慶長14年(1609年)に嫡男本多忠政に家督を譲り隠居すると翌慶長15年に桑名で死去した。享年63。

 来歴

  • 本多忠勝ののち、本多家に伝来。
  • 本多忠良のとき、秀吉から拝領したという佐藤忠信の冑と共に台覧に供している。

    忠良が家祖中務大輔忠勝が用ひし蜻蛉切の鑓并に豊臣關白より忠勝に賜はりし佐藤忠信が冑を忠良よりめして御覧あり

    本多忠良は、忠勝系本多宗家8代。分家筋にあたる播磨国山崎藩主・本多忠英の長男として誕生するが、本家当主の本多忠孝が12歳で無嗣のまま死去したため幕命により本多忠良が継ぐことになった。しかし藩主死去後の急養子であったため10万石減封され三河刈谷への転封となった。越後村上藩2代藩主。のち三河刈谷、下総古河。7代将軍家継の側用人、8代将軍吉宗のとき享保19年(1734年)に西の丸老中、翌年に本丸老中を務めた。




 3本の写し

 岡山城所蔵

  • 岡崎城の「三河武士のやかた家康館」にレプリカが展示されている。

 固山宗次作(東京国立博物館所蔵)

大笹穂槍
銘「世伝蜻蛉切効正真作/形摸而固山備前介藤原宗次鋳之」 蜻蛉切写し。東京国立博物館所蔵

 藤原正真作(行方不明)

  • 江戸時代の記録では、本多家にもう一つ蜻蛉切と呼ばれる槍があり、形は直穂で違うが、同じ模様が彫られ、作者も同じだったという。穂(刃長)1尺4寸(42.4センチ)、茎1尺8寸(54センチ)、幅3.6センチ、厚み1センチ。
  • 明治36年(1903年)の第五回内国勧業博覧会において、日本體育會が設けた運動場に併設した體育参考場に「古來ノ武具遊戯具」を並べた。この中に、「蜻蛉切槍(模造)」が含まれている。子爵本多忠敬所持。

    蜻蛉切槍(模造)  壹本     子爵本多忠敬氏所藏
    此ノ槍ハ有名ナル本多平八郎忠勝ノ所持セシモノヽ模造ナリ。(中略)
    サレバ現在ノ槍ハ、抦ノ長サ壹丈三寸ニシテ、鋒身ノ長壹尺四寸五分、幅壹寸貳分、重ネ三尺半アリ。銘ニ藤原正眞作トアリ。(中略)
    模造物モ亦徳川氏ノ初ノ作ニシテ其制毫モ實物ニ異ナラズト云フ。

    日本體育會(日本体育会)は、現在の学校法人日本体育大学の前身組織。2012年に「学校法人日本体育会」から「学校法人日本体育大学」に名称を変更した。

  • こちらの消息は全く不明である。

 それ以外の蜻蛉切

 毛利家

片鎌槍身
號 蜻蛉切 一筋
銘 相州總宗作

  • 毛利家に相州總宗作の蜻蛉切と号する槍が伝来した。大正4年(1915年)の靖国神社大祭に遊就館へ出陳されている。
  • 目釘孔2個、穂長七寸六分強、裏樋の内に倶利伽羅龍の彫り物、棒鞘入。

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