蛍丸


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Table of Contents

 蛍丸国俊(ほたるまる)

大太刀
銘 来国俊
茎 永仁五年三月一日
三尺三寸四分五厘
螢丸

  • 「阿蘇の蛍丸」
  • 茎に掘られた「永仁五年」とは1297年のこと。
    ただし「来国俊」の三文字目、「永仁五年三月一日」の一日の部分が判別し辛い状態という。
  • 南北朝の折、阿蘇惟澄が佩用した。
  • もと身幅一寸三分、重ね三分九厘、表裏に棒樋と連れ樋。佩き表に二寸一部の護摩箸、その上に「八幡大菩薩」の文字。佩き裏には六寸八分の素剣、その上に梵字。
  • 中心うぶ、佩き表に「来国俊」、裏に「永仁五年三月一日」(1297年)と切る。

 由来

 尊氏の九州西下

  • 南北朝の頃、足利尊氏は後醍醐天皇による建武の新政に反発し離反するが、楠木正成や北畠顕家らと連絡した宮方勢に京都とその近辺で敗れ海路西走する。播磨国の赤松則村(円心)らに助けられ、再興を賭けて九州での再起を図る。
  • 尊氏は足利方に味方した肥前国守護の少弐頼尚らに迎えられるが、九州の諸豪族は肥後国の菊池武敏をはじめ、筑前国の秋月種道、肥後国の阿蘇惟直、筑後国の蒲池武久、星野家能など大半が南朝方に与し、兵力は2万に膨れ上がった。宮方の軍勢は博多を攻め、少弐氏の本拠大宰府を襲撃して陥落させ少弐貞経を自害させる。

 多々良浜の戦い

  • 建武3年(1336年、延文元年)3月、足利勢は、筑前国宗像を本拠とする宗像氏範らの支援を受け、筑前国の多々良浜に布陣した菊池氏率いる宮方と激戦になる(多々良浜の戦い)。
  • 当初は宮方の菊池軍が優勢であったが、菊池軍に大量の裏切りが出たため戦況は逆転し、菊池軍は総崩れで敗走し、阿蘇家9代当主阿蘇惟直は肥前国小城郡天山にて自害する。

 蛍の夢

  • この時に阿蘇家庶流恵良氏出身で、後に阿蘇氏の第10代当主となる阿蘇惟澄が振るったのがこの大太刀で、敗戦濃厚となる中、この刀でさんざ闘い、さすがの名刀も無数の刃こぼれができ、ささらのようになったという。
  • 残り僅かな郎党を伴ない居館に引き返した惟澄は、太刀を壁に立てかけいつの間にか眠りに落ちたが、その夜、不思議な夢を見た。夢の中で無数の蛍がその太刀にまとわりつき、明々と光を放っては消えていったという。
    欠けた刃が飛んで戻ってきて元の場所に収まった様子が蛍に見えたという。
  • 目覚めた後、太刀を確認すると、刃こぼれが全く消えていたという。
    同じ南朝方の菊池武光(肥後菊池氏第15代当主)の逸話との説もある。また菊池武光が、刀についた血糊を川で洗ったところが、筑後国太刀洗(福岡県三井郡大刀洗町)であるという。

 来歴

  • その後、阿蘇大宮司惟澄の後裔に伝わる。
  • 元禄頃の肥後熊本藩主(3代藩主細川綱利か)から召し上げの内示があったが、大宮司家はこれを頑として承諾しなかった。そのため借り上げという形で一時細川藩主の佩刀になっていた時期があるという。
    細川綱利は慶安3年(1650年)に家督相続し、正徳2年(1712年)に隠居。
  • 「剣話録」にも同様の話が出ている。

    寛政九年二月に細川家の當主へ、其比の阿蘇大宮司より差出して御覧に入れ、同月十一日生寫にしたと云ふ奥書のある押形の巻物を複寫したもの

    講話を文字起こししたものであるため意味不明瞭だが、寛政9年(1797年)に細川家の当主に差出したのであれば、熊本藩主は8代細川斉茲(1787-1810年)の頃となる。
     なお細川斉茲は宇土藩5代藩主・細川興文の三男で、まず兄・興武が早世したため嫡子となり、のち元服して立禮と名乗る。明和9年(1772年)には父の隠居に伴い宇土藩6代藩主となるが、天明7年(1787年)9月に本家熊本藩主の細川治年が実子を全て早世で喪って死去したのにともない、治年の義弟(姉の謡台院が治年の正室)である立禮が養子となって跡を継ぎ、熊本藩8代藩主となった。同年12月に将軍家斉の偏諱を受け斉茲と名乗りを改めた。

  • 昭和6年(1931年)に旧国宝指定を受け、昭和14年(1939年)の記録では男爵阿蘇恒丸氏の所有となっている。

    太刀 銘 来国俊 (たちめいらいくにとし) 永仁五年三月一日
    所在地 一の宮町宮地
    指定年月日 昭和6年12月14日
    備考 別称「蛍丸」 拓本あり

  • しかし戦後GHQの刀狩のどさくさに紛れ、現在行方不明。


 兄弟刀

  • 明治期、米田男爵家に同銘同月作とみられる刀があったという。


    銘 来国俊
    茎 永仁五年三月

  • 表に「八幡大菩薩」と護摩箸、裏には梵字と素剣が彫られている
  • 集古十種」所載

    長二尺七寸 元幅一寸五厘 先幅五分

    • 集古十種の図では銘、彫物などは確認できない。別物の可能性もある。
  • ただし国俊の俊の字、および三月の下が朽ちており判別は困難という。
  • 元は蛍丸と共に大小二口で造られたものであり、阿蘇家にあったときには揃っていたという説もある。集古十種では「今蔵其家」とあり、寛政年間まではそろっていた可能性が高い。




 宮崎の蛍丸

 伝来

  • それによれば、今から400年ほど前(1600年ごろ)、高千穂の三田井氏が攻撃を受け、負けてしまったときの話として、五ヶ瀬の内の口というところに敗残の侍が落ち延びてきたという。
  • 甲斐繁左衛門の家に駆け込み、屋根裏の桶の裏にかくまってもらう。そこで追手を巻くことに成功するが、その後侍が山道を逃げていると追手が再び迫り、草むらに隠れたところ腰に指していた「蛍丸」が光り始め、その光で気づかれた侍は討たれてしまったという。
  • 村人は祠を建ててその侍を厚く葬り、その祠が恵良八幡神社(宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町)の始まりであるという。

 高千穂三田井氏

  • 三田井氏は、大神惟基の長子・高千穂惟政の後裔と伝えられる。
  • 名字の地三田井は、臼杵郡五個瀬川の上流高千穂郷の一邑でその中心であった。高千穂郷は、西は肥後国阿蘇郷、北は豊後の直入・大野両郡に接している。

 阿蘇氏との関係

  • 明徳三年(1392年)、南北朝の合一がなり室町幕府体制が確立され九州も平穏になり、三田井氏は阿蘇氏と結んで高千穂の支配を安泰たらしめたとされる。
  • 応仁元年(1467年)、京都を中心に応仁の乱が起ると、高千穂の北方豊後の守護大名大友氏が勢力を拡大してきたため、三田井氏家中では、豊後の大友氏と結ぼうとする勢力と、従来のごとく阿蘇氏を恃もうとする勢力に分裂して内紛が生じる。
  • 阿蘇氏は三田井氏の内紛に介入し、親大友派の馬原石部新左衛門らは三田井惟利を奉じて高千穂から逐電した。残った親阿蘇派は、文明十三年(1481年)阿蘇家に起請文を入れている。

 島津家の日向侵攻

  • その後伊東義祐によしみを通じ高千穂地方の保持につとめるが、薩摩大隅を平定した島津氏が日向を窺い、天正13年(1585年)、三田井氏は人質を佐土原城代の島津家久に送って島津氏に降った。

 秀吉の九州平定

  • その後豊臣秀吉による九州平定があり、日向では県・三城・宮崎が高橋元種に与えられるが宛行状に高千穂が明記されていなかったため高橋氏と三田井氏の間で争いとなり、ついには天正19年(1591年)九月、筆頭重臣である甲斐宗摂の内応もあり高橋勢は宗摂の案内で三田井本城に攻め寄せる。
  • 三田井親武は弟親貞らとともに戦死、この合戦で三田井一族の主だった者はほとんど討死し、古代より高千穂の地に歴史を刻んできた三田井氏は滅亡する。

 二つの蛍丸伝説

  • 上記の宮崎の蛍丸の話はこの頃のものと思われる。
  • 南北朝合一の頃には高千穂の三田井氏は阿蘇氏と結んでおり、その頃に交流があったとも考えられる。
  • 阿蘇氏に伝わった「蛍丸国俊」は昭和に国宝指定を受けており存在が明らかであるため、「高千穂三田井氏の蛍丸」は伝承が伝わり発生した話であると考えられる。
  • ただし阿蘇家の「蛍丸国俊」が主人の危機の際に自ら修復したのに対し、宮崎の蛍丸は落武者となった主人を追い詰めてしまう運命になっている。
  • なお宮崎に封じられた高橋元種には同様の話が薙刀「権藤鎮教」にも残っている。

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