蛇逃
虵逃(へびにげ)
龍笛
- 「虵逃」、「蛇逃」。「虵丸」ともいう。
- 読みは「しゃにかし(じゃにがし)」とも伝わる。
概要
- 「虵逃」は、横笛(龍笛)の名称のひとつ。
虵逃ハ樂人清原助種ガ先祖ノ笛ナリ。而左近衛生助元、助種弟子府役ノ間懈怠アリテ左近府ノ下藏ニメシコメラレタリケルニ、此下藏ハ虵ノスムナルモノヲトヲソロシク思テヰタリケルホドヽ夜半許ニナリテ大虵イテキニケリ。
頭ハ師子ノ頭ハカリニテ眼ハカナマリノコトシ。三尺ハカリナル舌ヲサシイタシテ、大口ヲアキテステニチカクヨリテノマントシケリ。助元肝心モウセハテナカラ、笛ヲヌキイタシテワナヽク/\見虵樂ノ破ヲ吹ケリ。大虵キタリトマリテ頭ヲタカフモチアゲテ笛ヲキクケシキアリ、シハラクキヽテカヘリウセニケリ。
仍虵逃或虵送ト名ク。今世ニ尚傳之、助種ハ傳タルヲ公時卿ニ譲リ奉ト云々。
- 元は清原助種の所持で、先祖から伝わったものだという。
- 清原助種は平安時代後期の雅楽家。大治元年(1126年)左近衛府生。
大治元年丙午
左近府生
清原助種 。十二月日任。年。笛吹。助貞男。保元ニ年丁丑
左近將曹
助種。承安元年辛卯
左将曹大助種笛吹。月日卒。
府生(ふしょう/ふせい)は六衛府・検非違使庁などの下級職員。清原助種は大治元年(1126年)に左近衛府生に任ぜられ、保元2年(1157年)に左近衛将曹に上っている。将曹(しょうそう)は府生の上官で四等官の主典に相当する。従七位下の官位相当。
- 「十訓抄」にも同じ話が載っている。
伶人助元、府役懈怠のことによりて、左近府の下倉に召し籠めらる。この下倉には蛇蝎のすむなるものをと、恐れをなすところに、夜中ばかりに、大蛇、案のごとく来たれり。頭は祇園の獅子に似たり。眼は金鋺のごとくにて、三尺ばかりなる舌をさし出して、大口をあきて、すでにのまむとす。助元、魂失せながら、わななく、腰なる笛を抜き出て、還城楽の破を吹く。大蛇、来りとどまりて、頸を高くもたげて、しばらく笛を聞く気色にて、返り去りにけり。
(十訓抄)
- ある時、左近衛府生であった助元(清原助種の弟子)が、懈怠を咎められ左近府の倉に籠められたという。
「助元」の名は、平治元年(1159年)に左近衛府生として現れ、仁安3年(1168年)まで同職にあったことが確認できる。
- そこは蛇が棲むと言われており恐れていた所、案の定、夜中に大蛇が現れたという。祇園の獅子に似た頭を持ち、眼は金鋺のようで、三尺にもなる舌を出して今にも助元を呑み込もうとした。助元は、魂が消え入りそうになりながらも腰にあったこの笛で還城楽の破を吹くと大蛇は留まり、頸をもたげてしばらく聞き入っていたが、やがて去ったといい、これにより「虵逃(蛇逃)」の名をつけたという。
還城楽(げんじょうらく)とは唐楽の曲名。「見蛇楽」とも。西域の胡人が、好物の蛇を見つけて笛を吹くことで蛇を捕まえ喜悦するという筋になっている。
- 清原助種は、この「虵逃」を「公時卿」に譲ったという。※助種は、承安元年(1171年)卒。
助種ハ傳タルヲ公時卿ニ譲リ
「公時卿」は不明だが藤原公時(滋野井公時)のことか。藤原公時は権大納言・滋野井実国の次男で、従二位・参議。保元2年(1157年)生まれ、承久2年(1220年)没。滋野井家は、藤原北家閑院流(公季流)で羽林家の家格を有する公家。家業は神楽。
- のち大神景秀に伝わり、応永15年(1408年)3月14日の北山殿行幸において奏したという。
十四日、晴、癸亥、
一、無童御覧、未刻参向、春庭樂、
(略)
笛
治部卿 ユカミ丸綾小路三位 満季朝臣
實郷 教高 景房
景秀 大神景親 同景清
- さらに後には御所に入っていたが、安政元年(1854年)「安政の大火」(嘉永7年4月の「毛虫焼け」)の際に焼失したと伝わる。
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