虎御前の太刀
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虎御前の太刀(とらごぜのたち)
刀
茎切付銘「竹中重治所持」
名物虎御前
個人蔵 京都井伊美術館寄託(京都市東山区 旧中村甲刀修史館)
竹中半兵衛尉
戦場之出立は、静かなる馬に乗、虎御前と云刀(元重)を常の如くにさし、具足は馬皮のうらを表に用い、つぶ漆にてあらあらとぬりたるを、あさ黄の木綿糸にてをどし立、甲は一谷の立物打たるを猪首に著なし、餅の付たる浅黄之木綿筒服を長々と打はおり、ゆらりゆらりと打みえしなり。
由来
- 竹中半兵衛が、小谷城攻めの際に虎御前山で功を挙げた時に秀吉から拝領した刀。
来歴
秀吉→半兵衛
- 秀吉から竹中半兵衛に下賜。
山内一豊
- 半兵衛没後、「虎御前の太刀」は山内一豊に譲られたという。
半兵衛の死後、遺品は一ノ谷兜は福島正則へ、虎御前の太刀は山内一豊へ、采配は黒田長政に分け与えられた。なお朝鮮出兵時に福島正則と黒田長政が仲違いをしてしまうが、帰国後に「旧交の御親み捨て難き」として互いの愛用のかぶとを交換し和解の印とした。長政は「大水牛の兜」の写しを、正則は半兵衛の遺品である「一ノ谷兜」の写しをそれぞれ相手に贈っている。
異説
- ただし、毛利勝信を経て、山内忠義に譲られた、ともいう。
一、兼常御刀
右ハ毛利壹岐守殿豊前小倉城主壹岐守吉成(毛利勝信)ヱ御所望ニテ大切モノ祕藏ノ處ニ、壹岐守殿慶長六年御國へ御預已後忠義公へ被進之由、是ハ忠義公御自身御様被遊候由申傳候
- これによれば、毛利勝信(森吉成、壱岐守)が所望して入手したという。
- 勝信は秀吉に仕え、豊前小倉6万石を領した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、毛利勝信は石田三成側に付き、子の毛利勝永(森吉政、豊前守)が伏見城を攻めている。勝信は国元にいたが、家老の毛利信友が伏見で戦死したために香春岳城の城主に自分の子を据えようとしたことから争いが勃発。結局は豊前一国の切り取り自由の安堵を家康から取り付けていた黒田官兵衛が領有することになり、毛利勝信・勝永父子は改易され、肥後の加藤清正へと預けられることとなった。
- さらにその後土佐一国を領有することになった山内一豊へと身柄を移されており、この時に本刀は山内家(忠義)へと贈られたのだとする。
毛利勝信は慶長16年(1611年)に配所にて死去。すでに土佐藩主は2代忠義になっており、この時に譲られた可能性がある。子の毛利勝永は、慶長19年(1614年)に大坂城の豊臣秀頼からの招きを受けて土佐から脱出し参陣している。翌年の夏の陣では天王寺口の戦いで奮戦するも最後は大坂城へと戻り、秀頼の介錯を務めた後に自害した。
京博→個人蔵
- 虎御前の太刀は、明治末には京都国立博物館に保管されていたが、その後個人所蔵になった。
- 現在は京都の井伊美術館に寄託されている。
井伊美術館の館長井伊達夫氏(旧姓中村)は、2007年に婿養子となって井伊兵部少輔家の名跡を継ぎ現当主。
虎御前山(とらごぜやま)
- 滋賀県長浜市にある独立した小さな山。南北に長く、南尾根をとくに「八相山(はっそうざん)」と呼んでいる。
- 古くは足利尊氏がここに陣をおき、対立した弟・足利直義との激戦を繰り広げている。観応2年(1351年)の「八相山の戦い」。
- その200年後、元亀元年(1570年)の姉川の戦い後に小谷城にこもった浅井氏攻略に向け、信長は小谷城に対面する位置にある虎御前山に目をつけ、ここを要塞化している。3年後の天正元年(1573年)にようやく小谷城を攻略し、戦国大名浅井氏は滅亡した。
- 「虎御前山」の名前は、虎姫伝説にちなんで付けられた。
始は長尾山と号す、此山に桃須谷(ももすだに)といふ処あり、其谷に井筒と号する泉あり。此地に一人の美女忽然として顕れたり、容色類なし。せゝらぎ長者娶りて妻とす、其の名を虎御前といふ。懐胎して十五筋の小蛇を産す、甚之を恥じて山東の淵に身を投ず、今の女性淵(みせがふち)是也、爾来此山を虎御前山と号すといふ。(近江輿地誌略)
- せせらぎ(世々開)長者とは、村の水不足を憂い高時川から水を引く大事業を行ったとされる人物。
- 世々開はたいそう悲しんだが、立派に15人の子供を育て上げ、成人する頃には人間となったく変わらない容姿になったという。世々開は子どもたちに土地を分け与えたため、虎姫は15の村からできていたとも伝わる。
- 滋賀県長浜市中野町には世々開長者の碑が残る。
- 「曽我物語」に登場する鎌倉時代の遊女「虎御前(とらごぜ、曾我祐成の妾)」とは関係がない。
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